最上義光と義姫の素顔|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で戦国一のワル?山形・最上兄妹の素顔が放送されました。

 

悪人と呼ばれた兄妹

山形県山形市はかつて出羽国と呼ばれました。ここに乱世に勝ち残るためには手段を選ばない兄妹がいました。戦国武将の最上義光(もがみよしあき)と2歳年下の妹・義姫(よしひめ)です。後の記録に記された二人の評価は奸悪。心の曲がった悪人です。一体どれほどの悪事を重ねてきたのでしょうか?

義姫は政略結婚で伊達家に嫁ぎました。最上と伊達は隣国同士だったからです。永禄10年(1567年)8月3日、伊達政宗は生まれました。間もなく弟も生まれました。男子を二人も授かり伊達家も安泰と思われました。しかし、義姫は弟ばかり愛し伊達政宗を顧みることはほとんどありませんでした。伊達政宗は幼い頃、大病を患い生死の境をさまよいました。それにも関わらず義姫は一度も見舞いに来ませんでした。病で伊達政宗は右目が見えなくなってしまいましたが、それを跡継ぎらしくないと義姫はますます嫌ったのです。

一方、最上義光は常に伊達家を狙っていました。そもそも最上義光は最上家当主の座を父親から力ずくで奪っていました。父親が伊達家と親密だったからです。さらに伊達に味方した武将たちも次々と攻め滅ぼしました。そのやり口も汚く、武将の家来を密かに裏切らせ主君を討たせました。また、仮病で相手を誘い出し見舞いに来たところをバッサリ。

ついに堪忍袋の緒が切れた伊達政宗は天正16年(1588年)に山形へ進攻。しかし、中山峠で母・義姫が立ちはだかりました。義姫は伊達と最上が睨み合う戦場の真ん中に80日も居座りました。義姫は最上義光と結託して伊達政宗の邪魔をしに来たのです。これにより伊達政宗は引きました。

天正18年(1590年)4月5日、伊達政宗は義姫から食事に招かれました。滅多にないことでした。義姫は伊達政宗の菓子に毒を盛ったのです。黒幕は最上義光でした。間一髪、伊達政宗は助かりました。義姫はこの後すぐに山形へ逃亡しました。

 

しかし近年、兄妹のこうしたイメージを覆す決定的な発見がありました。政宗の教育係だった僧侶の手紙です。注目は「政宗の母が今月4日の夜最上へ逃げた」という部分。実はこの手紙、毒殺未遂事件があったとされる4年後に書かれたものです。つまり、毒殺未遂から4年間は政宗と義姫は一緒に暮らしていたということです。しかも、その4年の間には政宗が義姫にはやりの着物をプレゼントしたり、逆に義姫がお小遣いとして3両のお金を政宗に送ったり、母子仲良く暮らしていたことが政宗自身が書いた手紙からも明らかになっています。

また、義姫が戦場で伊達政宗の邪魔をしたのも、両家の和睦が目的だったと言います。これまで悪人とみなされてきた最上兄妹ですが、新たな研究によって全く別の姿が浮かび上がってきたのです。

 

最上義光が得意だったのは連歌。仲間同士で歌をいくつも詠み続けるものです。義姫も能や雅楽をたしなむ教養の豊かな姫君でした。兄妹が生まれた山形では最上川や日本海の水流によって京の都と文物の取引が盛んでした。そのため、二人は幼い頃から都の雅な文化に触れながら育ったのです。しかし、時は戦国乱世。最上兄妹は茨の道を歩んでいくことになりました。

 

兄妹が愛した姫

最上義光には駒姫(こまひめ)という娘がいました。容姿端麗でこの世にふたりといない美人であると評判でした。しかし、この自慢の娘の美しさが思わぬ事態を招くことになりました。

天正19年(1591年)10月、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が山形城を訪れました。秀次は駒姫を気に入りました。女好きで知られる秀次には正室の他に30人もの側室がいました。駒姫が都で、しかも数多いる側室の一人となって幸せになれるのか、最上義光は秀次の申し出を丁重に断りました。しかし、秀次は3~4年待つと言い、強大な豊臣家をバックに持つ秀次に最上義光は従わざるおえませんでした。娘に礼儀作法を教えるのは母親のつとめでしたが、駒姫のそばに母はいませんでした。当時、大名の妻は京で豊臣家の人質となっていたからです。そんな時、最上家に現れたのが伊達家から戻ってきた義姫でした。能や音曲をたしなむ義姫の名は秀吉にも知られたほど。母親代わりとして駒姫に手ほどきをすることになりました。

月日は流れ、駒姫が山形を旅立つ日がやってきました。文禄4年(1595年)7月、駒姫は京に到着しました。しかし、駒姫が身を寄せるはずの秀次が切腹。秀吉に対する謀反の疑いで都は騒然としていました。秀次の正室と側室、その子供まで処刑が命じられました。最上義光は駒姫だけは助けてくれるよう豊臣家に懇願しました。しかし、最上義光も秀次の一味として謹慎を命じられ、駒姫に会うことすら禁じられてしまいました。

文禄4年8月2日、死に装束姿の駒姫は都中を引き回されました。駒姫の処刑は11番目。当時の記録には「幼い少女だが最期の時もさすが大名の姫として落ち着いていた」と記されています。駒姫の悲しい最期を知り、最上義光が口にした言葉が伝えられています。

「これはわしがこの世に生まれる前、前世からの因縁か。前世にわしは何か罪を犯し、その報いを今受けているのか」

そこには乱世の悪人ではなく、愛娘を失った無念と悲しみを抱いて生きなければならない一人の父親がいました。

最上義光はその後まもなく専称寺で駒姫の菩提を弔いました。境内に駒姫が使っていた部屋を移築した最上義光は度々ここを一人で訪れていたそうです。

 

娘にささげる戦い

駒姫が亡くなって3年後、最上家に悲劇をもたらした豊臣秀吉が病死。すると、徳川家康が天下取りに向け動き出しました。慶長5年(1600年)7月7日、最上義光に家康から手紙が届きました。最上義光が命じられたのは東北の大名たちとともに上杉軍に攻め込むことでした。総勢1万7000。3万以上の上杉軍を徳川・伊達などの大軍と挟み撃ちにする作戦でした。しかし8月4日、徳川家康は最上義光を置き去りにして西へ向かったのです。事態は天下分け目の関ヶ原へと動いていました。さらに伊達政宗が上杉と和睦。最上義光と陣を共にしていた大名たちは、我先にと国へ帰ってしまいました。残りは1万足らずの最上軍だけだと知った上杉家は一気に叩き潰そうと動き始めました。

9月8日、上杉軍は3万もの軍勢で山形に攻め寄せました。総大将は「愛」の冑の直江兼続(なおえかねつぐ)でした。兼続率いる上杉軍の猛攻に最上の城は次々と落ち、そこにいた者はみな殺しにされました。1週間も経たないうちに最上義光の居城・山形城のすぐ近くまで攻め込まれてしまいました。そこへ現れたのが義姫でした。義姫は政宗に援軍を頼むことにしたのです。

「伊達の援軍がぜひとも必要です。伯父の義光殿もそなたを待ち望んでいます。早く早く来て下され」(義姫の手紙より)

しかし、伊達軍に動く気配はありませんでした。翌朝、義姫は再び筆をとりました。その文面はすさまじい気迫に満ちていました。

「山形はまもなく戦となろう。これに遅れるなど武士としてあるまじきことぞ。急ぎに急いで駆けつけよ」(義姫の手紙より)

そして2日後、ついに伊達の援軍がやってきました。最上・伊達連合軍は反撃に出ました。最上義光自身も敵軍に討ちかかり、上杉軍を打ち破りました。

 

山形市内で毎年5月に開催される植木市は、焼け野原となった城下町に彩を取り戻すため最上義光が始めました。ほどなく山形は多くの柳や桜の木で華やかな街に生まれ変わったと地元の記録に記されています。最上義光の命で作られた用水路・北楯大堰ができると新しい田畑や村が増えていきました。北楯大堰は宝の堰として今もなお山形の地を潤し続けています。69歳でこの世を去った最上義光が、今わの際に詠んだ漢詩が残っています。

「私は敬いと慎みの心をずっと持ち続けてきた。たった今、我が命は天に帰る。この世に生を受けること六十有余年、様々なことがあった。今は山形に咲いた花々に感謝を捧げ眠りにつこう」(政隣記より)

故郷を愛し、その発展に力を尽くした最上義光と義姫。二人の歩は今も山形の暮らしに息づいています。

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