ドボルザークの「スラブ舞曲」|ららら♪クラシック

NHK・Eテレの「ららら♪クラシック」でドボルザークの「スラブ舞曲」について放送されました。

 

運命の出会い

作曲家としての成功を夢見て、若きドボルザークは交響曲やオペラなどの大作をコツコツと書きためていました。しかし、なかなか日の目を見ることはなく貧しい生活が続いていました。そこで、オーストリア政府が行っていた奨学金制度に目をつけました。奨学金を手にし、最低限の生活が保障されれば思う存分作曲にうちこむことができると。1874年、ドボルザークは33歳の時に応募。審査に通り奨学金を得ることができたのです。さらに奨学金制度はお金以上のものをドボルザークにもたらしました。後にドイツロマン派の巨匠とされる作曲家ブラームスとの出会いです。審査員だったブラームスはドボルザークの応募作品に心惹かれ、出版社にドボルザークを紹介しました。

この時代、ピアノを家庭に持ち音楽を愛好する中産階級の間では異国趣味が流行していました。異国の物珍しいメロディーがもてはやされていたのです。ブラームスもこの流行にのってハンガリー地方の民族音楽をもとに「ハンガリー舞曲」を発表。大ヒットし、多額の出版料を手にしていました。そこで、ドボルザークも流行にのりチェコの民謡をもとにして異国情緒あふれる「スラブ舞曲」を作曲したのです。そして狙い通り大ヒット。続き第2集ではチェコだけでなく周辺のスラブ地域の民謡を取り入れバラエティ豊かな作品を作り上げたのです。さらにドボルザークはオーケストラ用にも編曲。各地のオーケストラがスラブ舞曲を盛んに演奏しました。

 

スラブの心

「スラブ舞曲」第1集の大ヒットで楽譜出版社はすぐにでも第2弾を作曲して欲しいとドボルザークに何度も頼みにやってきました。しかし、ドボルザークはその依頼を拒み続けました。やっと作曲家としての地位を築いたドボルザークは、大衆受けのする音楽ではなく交響曲やオペラなど芸術性の高い作品を出版したかったのです。しかし、当時の社会状況はドボルザークにとって優しいものではありませんでした。音楽の主流はドイツやオーストリア。チェコ人の作曲する音楽の芸術性は認められなかったのです。ドボルザークの「スラブ舞曲」は売れても交響曲は求められていませんでした。さらにドボルザークの故郷チェコではオーストリアからの独立を求め民族運動が活発になっていました。チェコ人の芸術家たちは郷土愛に満ちた作品を発表し、民族運動を後押ししていました。そんな中、ドイツの出版社から楽譜を出版し活躍の場を外国に求めていくドボルザークは、故郷を捨てた裏切り者と言われかねない状況におかれていたのです。様々な状況が渦巻く中、ドボルザークは「スラブ舞曲」第2集を作曲しました。第1集から8年の歳月が流れていました。

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