新選組 京都青春録 ~素顔の沖田総司・土方歳三・近藤勇~|歴史秘話ヒストリア

新選組誕生!鉢金に秘めた願い

まるで役者のような顔立ちだったと言われた新選組きっての二枚目・土方歳三(ひじかたとしぞう)ですが、現在残っているのは晩年に撮られた洋装の写真だけです。土方歳三が額につけているものは、敵の刃から身を守る鉢金という防具です。

 


土方歳三

 

幕末の江戸、土方歳三は商家で奉公人をしていました。しかし、女中に手を出すなど素行に問題があった土方歳三は店を辞めさせられてしまいました。

 

17歳になっていた土方歳三は、生まれ故郷の多摩へ帰りました。裕福な農家の10番目の子どもで、親を早くに亡くした土方歳三は義理の兄・佐藤彦五郎たちの世話になりながら成長しました。

 

彦五郎のもと土方歳三が熱中したのは剣の修行。村の名主をつとめる彦五郎の家には剣術の道場がありました。役人の少ない多摩では、農民自身が地域の治安を守るよう任されていたからです。

 

そこに剣術を教えに来ていた近藤勇(こんどういさみ)や沖田総司(おきたそうじ)と交流する中で、土方歳三は剣で身を立てようと考えていきました。

 

近藤勇

 

文久3年(1863年)土方歳三は近藤勇たちと京都へ。当時、京都では幕府に反発する浪士が暗殺事件を度々起こし治安が乱れていました。土方歳三は剣の腕をいかして活躍しようと、近藤勇たち十数人と市中の見廻りを始めました。その名は浪人の集まり浪士組です。

 

しかし、浪士組への都の人々のまなざしは冷ややかでした。正式な組織に所属せず、腕っぷしを誇示しながら街をうろつく乱暴な若者たち。浪士組は野暮で危険なよそ者とみられました。市中見廻りで目立った功績もなく、周囲からも認められない日々が続きました。

 

5ヶ月後の8月18日、大事件が起こりました。京都の政治を牛耳る長州藩と一部の公家が、会津藩を中心とした勢力によって御所から追放されたのです。締め出された長州が逆襲してくる恐れがあるため、会津などの軍が御所の門の守りを固めました。浪士組にも人手不足の会津藩から出動要請が来ました。これまで思いもよらなかった名誉ある大仕事です。

 

土方歳三たちは、御所の東側にある仙洞御所を守るよう命じられました。このとき、浪士組に配られたものがあります。それは会津兵が戦の時に身に着ける黄色いたすき。敵味方を区別する印にすぎないたすきですが、土方歳三たちにとっては伝統と権威ある会津藩を背負ったことを意味しました。

 

その後、浪士組は御所の中心により近い建礼門へと配置がかわりました。浪士組が信頼を得たことがうかがえます。

 

事件の直後、功績が認められた浪士組に会津藩から新しい名前が与えられました。それが「新選組」です。会津藩でかつて藩主の本陣を守った精鋭部隊の名前です。

 

土方歳三たちはこの名誉ある名のもと、危険な取締りに身を投じていきました。その8カ月後、土方歳三は故郷に鉢金を送りました。鉢金には説明の手紙を添えていました。

 

八月十八日 御所非常に相用い候

 

新選組誕生のきっかけである御所での事件に用いたものだと誇らしげに報告しているのです。

 

証言で探る沖田総司の謎

昭和4年、沖田総司の肖像画が公表され世間を賑わせました。実は沖田総司に似ていると言われた沖田家の子孫をモデルに描かれたもので、総司自身ではありません。史料が少なく、その実像がよく分かっていません。

 

「剣法は天才的の名手でみんな竹刀をもつては子児扱ひにされた」(新選組始末記より)

「永倉新八と云ふ者が居りました 此者は沖田よりはチト稽古が進むで居ました」(史談会速記録より)

「恐らくは、本気で立合つたら師匠の勇もやられる事だらうとみんないつてゐた」(新選組始末記より)

「自分に万一のことがあった時は天然理心流は沖田総司に譲りたいと思っています」(慶応元年十一月付 近藤勇書簡より)

 

戦いでは無類の強さで恐れられたと言われる沖田総司ですが、普段はどんな人だったのでしょうか?

 

沖田が近所の子守や、私達のやうな子供を相手に、往来で鬼ごつこをやつたり、壬生寺の境内を駆け廻つたりして遊びました。

(新選組遺聞より)

 

沖田総司が京都にいたのは22歳から27歳まで。恋の一つもしたことでしょう。

 

京都で、ある医者の娘と恋仲になつたのです。この娘のこととなると、涙を落して語つたものです。

(新選組遺聞より)

 

悩める近藤 池田屋事件の真相

池田屋事件の1ヶ月前、近藤勇は自分の境遇に悩んでいました。農民出身の近藤勇は武士に憧れ、誰よりも武士らしく生きることを願っていました。しかし、仕事は毎日市中見廻りばかり。目立った手柄を上げられず苛立ちがつのりました。

 

とうとう近藤勇は幕府に訴え出ました。このまま市中見廻りが続くのであれば新選組に解散を命じ下さいというのです。

 

元治元年(1864年)6月5日、近藤勇の人生を変える運命の一日が始まりました。午前7時、新選組は商人・古高俊太郎を逮捕。古高はかねてから長州藩との繋がりを疑われていました。店の中からは武器や防具、手紙が見つかりました。見つかった手紙には「機会を失わず実行しなければならない」という気になる一文がありました。

 

これまでの説では、古高に対して土方歳三が拷問を行い、浪士による暴動計画を自白されたと言われてきました。この自白情報をもとに暴動計画を防ぐため新選組が出動したというのです。

 

この説に待ったをかけたのが、歴史地理史学者の中村武生さんです。会津藩の公式記録には具体的な判明事実は「機会を失わずに実行」以外記されていません。この頃、街では浪士たちが放火騒ぎを起こすという噂が流れていました。実行とはこのことなのでしょうか?新選組が動くにはあまりに不確かな情報です。

 

しかし、近藤勇の胸騒ぎは高まりました。そこへ古高の家で見つかった武器が何者かに奪われたという知らせが届きました。近藤勇はとにかく探索することを決断しました。

 

午後8時30分頃、近藤勇たちは会津藩と協力して繁華街を中心に探すことに。一方、古高が捉えられ浪士たちは慌てていました。早速、その夜に善後策を話し合うための会合が開かれました。その場所こそ、偶然にも近藤勇たちが探索する三条にある旅館・池田屋でした。

 

事件の直後、手柄を上げた近藤勇に幕府から打診がありました。旗本にとりたてたいが、先例がないため与力上席にしたいというのです。武士になりたいと願っていた近藤勇にとってこの上ない出世話でした。しかし、近藤勇は運命のめまぐるしい変化に戸惑いを隠せなかったのかもしれません。

 

その後、名を上げた近藤勇のもと新選組は京都の治安警察としてさらに大きくなっていきました。

 

「歴史秘話ヒストリア」
新選組 京都青春録
~素顔の沖田・土方・近藤~

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