新選組 土方歳三の生きる道|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」でずっと気張っていたかった ~新選組 土方歳三の生きる道~が放送されました。新選組は京都の治安を守るため徳川幕府に抗う者たちを次々にきりふせていきました。その新選組に鬼と呼ばれた侍がいました。土方歳三(ひじかたとしぞう)です。

 

気張れ!新選組 鬼の副長・土方 参上!

幕末の京都では人々を震え上がらせる事件が続いていました。幕府に反発する武士たちが人斬りを繰り返していたのです。この事態を受けて結成された組織が新選組でした。幕府から与えられた任務は都をパトロールし怪しい者を捕まえることでした。しかし、新選組の担当は都の中心から外れた地域だけ。天皇が住む御所の周辺など、政治的に重要な地域は担当できませんでした。当初は成果もあまり上がらず、幕府をおびやかすものの取り締まりはわずかで、よっぱらいを捕まえるのが精一杯でした。さらに凛々しい武士とはとても言えない態度でうろつく新選組は都の人々から冷ややかな目で見られていました。そんな不遇にも心折れずひたむきに新選組を率いたのが土方歳三です。土方歳三には人一倍、新選組にかける思いがありました。

土方歳三が生まれたのは多摩、現在の東京都日野市です。農家の10人兄弟の末っ子でした。しかし役人が少なかった多摩では治安を守るため、農民自ら剣を振るう気風がありました。武士への憧れを抱き、剣の道を歩み出した土方歳三に運命の出会いが待っていました。後に新選組の局長となる近藤勇(こんどういさみ)が近くの村から剣を教えに来ていたのです。年も一つしか違わない2人は剣を通して心を通わせていきました。

その頃、土方歳三が使っていた木刀は普通のものより50cmも長いものでした。その狙いは本物の刀の重さに近づけることにありました。土方歳三は実際に人を斬ることを意識しながら剣の向こうの未来を思い描いていたのです。

文久3年(1863年)、29歳の時に大きなチャンスが訪れました。幕府が京都の治安維持を担う人材を広く募集。武士の身分を与えるという待遇でした。ただちに京都に向かった近藤勇と土方歳三。そして半年後、2人を中心に新選組が誕生したのです。念願の武士となった土方歳三たちの決意は、ユニフォームに描かれた模様にこめられています。参考にしたのは忠義に命を捧げた赤穂浪士の装束でした。

ところが、新選組は出身も身分も価値観もバラバラの集団でした。同じ志がなければ危険な任務をともにできません。新選組を一つにするため土方歳三らが隊士に求めたのが侍らしく気張ることでした。そして局中法度と呼ばれる絶対の掟が作られました。その中で最も重要なことは、侍の道に背かないこと。違反者には切腹が待っていました。例えば、ある隊士が恋人の家に遊びに行った時の事、押し入れに隠れていた女の浮気相手に突然切り付けられ反撃もできませんでした。これが武士として情けないとみなされ、無情にも切腹。ある隊士は切腹で死んだ仲間を埋葬しているうちに明日は我が身かと恐怖にかられ新選組を逃げ出してしまいました。しかし見逃してはもらえず斬り殺されるはめになりました。京都の治安を守る新選組ですが、見回りなどの斬り合いなどで死んだ者は6人。自分たちの規律に違反して処刑されたとみられる者はそれを大きく超える21人になりました。

さらに土方歳三たちは任務のパトロールにも恐ろしいルールを定めました。それが死番。その役目は見回りの時、敵が潜んでいそうな場所に最初に飛び込むというもの。死番は4日に1度回ってきます。死番や切腹などの規律で死を覚悟させることにより新選組に連帯感が生まれました。

一方、局長の近藤勇は細かいことをあれこれ言いませんでした。小さな子供に対してはいつも笑顔を見せるような男でした。

新選組誕生から約1年、京の都は彼らにとびきりの舞台を用意しました。池田屋事件です。その日、新選組は幕府に反発する武士たちに不穏な動きがあることをつかみました。さらに彼らが集結する場所は会津藩の担当地域の可能性が高いという情報も入りました。本来なら管轄外なので関われませんが、新選組は会津藩に願い出て探索を開始。約3時間後、とある旅館の捜索に入りました。それが池田屋でした。初めに入ったのは近藤勇たち4人。相手は20人余り。しかし、常に死を覚悟してきた新選組はたじろぎませんでした。他の区域を探していた土方歳三も助太刀に駆け付け、その場を制圧しました。取り調べで明らかになったのは御所の周辺などに火を放ち、天皇を奪い去るという恐るべき計画でした。それを未然に防いだ新選組の名は一躍天下にとどろきました。

 

さらば盟友…土方歳三 一生の後悔

慶応3年10月、日本を揺るがす歴史の大転換が起こりました。時の将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返すと宣言し、幕府がなくなったのです。代わって薩摩藩や長州藩が中心となり新政府が発足。その新政府が徳川家の領地の没収を一方的に決めつけました。罪人のような扱いに旧幕府に尽くしてきた者たちは怒りを爆発させました。慶応4年1月3日、京都の南で新政府軍と旧幕府軍が激突。戊辰戦争の始まりとなる鳥羽伏見の戦いでした。土方歳三率いる新選組も新政府軍に戦いを挑みました。ところが、敵の銃弾に隊士たちは次々と命を落としていきました。武器、兵力ともに新政府軍との間に圧倒的な差があったのです。この戦いの後、新選組に見切りをつける隊士が続出。徳川に代々仕えてきた大名も新政府軍に降伏していきました。それでも土方歳三が武士として貫こうとしたのは主君・徳川家への変わることのない忠義でした。

「有利か不利かは問題ではない。新政府の薩摩と長州が幕府にしたことは弟が兄を家臣が主君を討つようなものだ。いやしくも武士たる者は薩摩・長州の味方をすべきでない」(仙台戊辰史より)

新選組にとどまった者たちは、関東に押し寄せてくる新政府軍を現在の山梨県甲州市で迎えうちましたが、勢いの差は歴然としていました。ひとたまりもなく蹴散らされたのです。鳥羽伏見の戦いの3か月後には関東の大部分が新政府軍の支配下におかれました。

千葉県流山に近藤勇と土方歳三が新政府軍の目を避けて潜伏した酒蔵の跡があります。酒蔵は当時、新政府軍によって完全に包囲され、責任者が出頭するよう呼びかけられました。近藤勇はここで切腹を決意。むざむざ敵に捕らえられ、処刑されることよりも武士らしく死のうとしたのです。ところが、その近藤に待ったをかけたのが土方歳三でした。土方歳三の訴えは恥をしのんで敵に身を預ければ万が一にも命は助かるかもしれないというものでした。それはかけがえのない盟友の死を前にしたとはいえ、侍の道を貫いてきた土方歳三の言葉とは思えないものでした。土方歳三の説得に近藤勇は応じ、責任者として新政府軍に投降しました。

しかし、運命は非情でした。近藤勇は処刑されたのです。武士としての切腹は認められず、罪人として首をはねられました。ただ、死にのぞんだ近藤勇は顔色も普段と変わらず、落ち着き払った様子だったと言われています。近藤勇が名乗り出たことで、土方歳三たちは新政府軍の追及をまぬがれました。自分たちだけが生き延びて、盟友を無残な形で死なせたことに。その重荷を背負いながら土方歳三は戦っていくことになりました。

 

「我 退く者を斬る!」 土方歳三 最後の戦い

近藤勇の死後、戊辰戦争は激しさを増していました。明治新政府が形を整えていく中、新選組は敗北を重ね隊士たちが次々と命を落としていきました。自らの旅路の険しさと孤独。しかし、土方歳三はあくまで戦い続ける覚悟でした。辿り着いたのは函館。そこに旧幕府艦隊のリーダー榎本武揚(えのもとたけあき)を中心に徹底抗戦をとなえる者たちが集結しました。拠点となったのが五稜郭です。土方歳三はこれまでの戦場での経験をかわれ榎本軍の陸上部隊を指揮する立場に任じられました。土方歳三のもと、活躍することになったのが230人の伝習隊。フランスの陸軍将校に鍛え上げられた最新の歩兵部隊でした。その訓練は日本人がかつて経験したことのないものばかり。跳び箱、棒高跳び、ブランコなど。近代的な運動で身体能力を高め、銃撃戦だけでなく至近距離の戦闘でも活躍できます。実は伝習隊の多くは武士ではありません。命知らずの火消しやばくち打ちなどのアウトロー。幕府が人宿と呼ばれる人材派遣業者に発注し、送り込まれた者たちでした。

「かつて近藤とともに死ななかったのは、いつか主君のいわれなき罪をそそぐためだ。それがかなわなければ死あるのみ。このまま終わっては何の面目あって地下の近藤とまみえることができようか」(殉節両雄之碑より)

明治2年4月、新政府軍が函館の北西・乙部に上陸を開始し、五稜郭に迫りました。戊辰戦争最後の戦いの始まりでした。土方歳三の部隊は敵の主力が函館に押し寄せる時の最短ルート、二股口で迎え撃つことに。土方歳三がしいた陣形は地形を巧みに利用したものでした。敵がやってくる道は一本。土方歳三はその一本道とT字に向き合う斜面の上に敵の銃弾から身を隠す土守を築きました。そして、やってくる4倍以上の敵に向けて土守の影から集中砲火。少ない兵力で戦うための作戦でした。土方歳三率いる伝習隊はここで13日間におよぶ激闘を繰り広げました。伝習隊の高い身体能力も威力を発揮。敵陣への決死の突撃も敢行。激しい実践にのぞんだアウトロー部隊は二股口を守り続けました。

しかし、土方歳三は二股口からの撤退を余儀なくされました。榎本軍の拠点である函館に危機が迫っていたのです。5月11日、新政府軍は函館に総攻撃を開始しました。海からは艦砲射撃、市街地を見下ろす山からも砲撃が繰り返されました。榎本軍は絶望的な状況に追い込まれていきました。そんな嵐のような攻撃に土方歳三は真っ向から立ち向かいました。部下の記録によると、土方歳三は逃げようとする者を大声で叱咤し、奮い立たせようとしていたと言います。

「我 退く者を斬る」

これが土方歳三の最期の言葉となりました。享年35。穏やかな日差しと砂埃の中、気張り続けた土方歳三の旅は終わりました。

土方歳三を失った榎本軍は降伏。約1年半にわたった戊辰戦争が終わりました。土方歳三の死から7日後のことでした。

 

和泉守兼定は土方歳三が亡くなる時に携えていた刀です。死後ほどなく函館から土方歳三の実家に届けられました。戦場の主役が銃に移り変わる中、土方歳三は武士の魂をいつも握りしめていました。土方歳三が死の前夜に詠んだという歌があります。

「鉾とりて 月見るごとにおもうかな あすはかばねの上に照るかと」
(剣をとり月を見上げるたびに思う 明日はこの月の光が我が屍を照らすのだろうかと)

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