新選組 ボクらの友情と青春|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で新選組 ボクらの友情と青春が放送されました。幕末の京都で相次ぐ暗殺や放火などの凶悪事件。そんな中、街の治安を守るため命をかけた若者たちがいました。新選組です。若者たちは力を合わせて危険な任務に身を投じていきました。ところが明治になると新選組は新政府に逆らった反逆者とみなされるように。そんな中、一つの手記が世に出ました。「浪士文久報国記事」です。書いたのは新選組の元隊士・永倉新八です。新選組の真実を世の中に知らせたいと永倉新八は仲間たちのためたった一人で闘い続けました。

 

オレたちは新選組だ!

時は幕末、江戸にある試衛館という貧乏道場を一人の若者が訪ねてきました。永倉新八(ながくらしんぱち)です。彼は後に新選組最強の剣豪と言われるようになる男です。このとき23歳。剣の道を究めようと全国の道場を訪ね歩いているところでした。そして永倉新八は近藤勇たちの仲間に加わりました。試衛館の仲間に永倉新八が強く惹かれたのは、その生い立ちにも理由がありました。

永倉新八は松前藩の江戸藩邸に勤める役人の家に生まれました。幼い頃から剣術が大好きで、暇さえあれば竹刀をふるっていたと言います。ところが、剣術など藩のつとめに何の役にも立たない、剣の道を諦め早く藩の仕事を学ぶよう再三にわたって迫られていました。やがて家を飛び出した永倉新八が辿り着いたのが試衛館でした。こうして仲間たちと稽古三昧の日々が始まりました。5歳年下の藤堂平助は永倉新八と同じく実践を第一とする試衛館の剣術に魅せられて仲間に加わりました。自分たちの剣の腕をいつか役立てたいという思いがつのっていきました。

永倉新八が試衛館に来て2年が経った文久3年(1863年)、幕府が京の都の治安を守るため広く人材を募集しているという知らせが届きました。当時、都では幕府に不満を持つ勢力が集まり、役人を暗殺するなど凶悪事件を繰り返していました。そうした輩を取り締まるため剣の腕の立つものを募集していたのです。条件は体力に自信があり、精神力が強い者、身分は問わないというものでした。このときの覚悟をよんだ永倉新八の歌が伝わっています。

「武士乃節を尽して 厭くまても 貫く竹の 心ろ一筋」
世のために剣をふるおうという武士としての志。仲間と誓いあったその志を竹のように真っ直ぐ最後まで貫いてみせる。

それから1か月後、永倉新八たちは江戸を離れ京の都にのぼりました。幕府から提供された下宿先で寝食をともにしながら治安を守る活動を始めました。隊の名は「新選組」旗には幕府への忠義を意味する「誠」の一字。新選組は都の治安をおびやかす者たちの取り締まりに力を尽くしていきました。

やがて永倉新八たちの剣の腕が天下にとどろく出来事が起こりました。池田屋事件です。池田屋という旅館に浪士たちが集まり、都を焼き払おうと企てているというのです。午後10時40分、池田屋に到着。敵は何人いるのか外からでは分かりませんでした。近藤勇と沖田は2階の座敷に向かいました。そこには刀を抜いた敵が20人以上いました。新選組の威信をかけた戦いが始まりました。仲間たちが次々と脱落し、ついには近藤勇と永倉新八だけが残されました。しかし敵の数は圧倒的で次第におされていきました。その時、別動隊の土方歳三たちが駆け付け形勢は一気に逆転。池田屋突入から1時間半、都を火の海にしようという浪士たちを見事鎮圧。新選組の活躍で無事都の治安は守られました。

 

さらば友よ

池田屋事件から半年余り経った頃、新選組は隊士も増え大所帯となりました。隊の雰囲気は江戸の試衛館の頃とは様変わりしていました。この頃の近藤勇の様子が伝わっています。

「近藤勇は他の同志を家来のように扱い、命令を聞かないならば剣にうったえる」(新選組顛末記より)

隊の規律を乱す者は、江戸の頃からの仲間でさえも容赦なく処罰されました。新選組の変化に永倉新八と藤堂平助は戸惑いを隠せませんでした。やがて永倉新八の不安は現実のものになりました。近藤勇にはついていけないと新選組を離脱する隊士が相次いだのです。その中には親友の藤堂平助もいました。彼らが近藤勇の命を狙っており、永倉新八は彼らを切るよう命じられました。それでも近藤勇は藤堂平助は助けるように言いました。

京都にある油小路で永倉新八たちは藤堂平助たちを待ち伏せしました。永倉新八は藤堂平助に逃げるように言いました。ところが逃げる藤堂平助に他の隊士たちが切りかかり亡くなりました。新選組結成から4年、永倉新八が29歳の時のことでした。

 

友のためオレは戦う

全国を巻き込んだ新政府軍との激しい戦闘で土方歳三は戦死。沖田総司は肺結核のため病死。そして局長の近藤勇は斬首されました。新政府に歯向かった反逆者として近藤勇は晒し首に。生き残った他の隊士も命を狙われることになりました。仲間とちりぢりになった永倉新八は北海道松前に身を隠していました。名前も変え、人目をしのぶようにひっそりと過ごす日々を送りました。

それから3年が経った明治7年(1874年)、永倉新八は思いもよらない知らせを目にしました。それは政府がこれまで禁じていた旧幕府軍戦没者の慰霊をゆるすというものでした。永倉新八は新選組の慰霊碑を建てようと考え、4年ぶりに上京し慰霊碑建立のため資金集めに奔走しました。ところが慰霊が許されたとはいえ新政府に逆らった新選組を忌み嫌う雰囲気は人々の間に根強く残っていました。

そして永倉新八は新選組のことを全て書き残そうと考えました。書き始めは江戸の試衛館で剣に打ち込んでいた頃のこと。

「近藤勇は剣術道場を開き、仲間と毎日稽古に励んだ。稽古の後には各々自分の思いを述べ合った。いつでも国のためなら命を投げ出す覚悟だった」(浪士文久報国記事より)

新選組の汚名を晴らしたい、その一心で永倉新八は筆をとりつづけました。しかし、どうしても永倉新八には分からないことがありました。それは近藤勇の最期について。当時のことを知っている人がどこかにいるはずと、永倉新八は方々を訪ねてまわりました。そしてついに近藤勇の最期の様子を知っている旧幕府関係者に辿り着きました。

近藤は新政府軍にとらえられ、新政府軍は降伏、謝罪を近藤に三回迫ったと言います。しかし近藤勇は降伏・謝罪することはありませんでした。近藤勇は最期の瞬間まで幕府に忠義を尽くすという武士としての義を誇り高く貫き通したのです。

永倉新八が仲間と共に体験した全てを記した「浪士文久報国記事」この手記をきっかけに、その後新選組を見直そうという動きが広がっていくことになりました。

明治9年、永倉新八は悲願だった慰霊碑を建てました。そこには幕末の動乱で命を落とした新選組の仲間112人の名前を刻みました。永倉新八は晩年を北海道の小樽で過ごしました。そして大正4年(1915年)77歳の生涯を閉じました。子孫の家には永倉新八が愛用していたチョッキが伝わっています。新選組隊士の頃に来ていた羽織を仕立て直した裏地に、仲間との大切な思い出を記しました。

「武士乃節を尽して 厭くまても 貫く竹の 心ろ一筋」

永倉新八が書いた「浪士文久報国記事」の終わりに、永倉新八が一番伝えたかった一文があります。

「ここに書かれていることは決して作り話ではない。全て実話である」(浪士文久報国記事より)

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