石田三成 劣勢を覆すには?|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で劣勢を覆すには?石田三成が放送されました。慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその生涯の幕を閉じました。すると、すかさず天下を手中におさめるべく動き出した人物がいます。徳川家康です。250万石を有する大名にして五大老の筆頭。地位も実力もかねそなえた家康に諸大名が次々となびいていく中、真っ向から家康に異議をとなえたのが石田三成です。しかし、石田三成のリーダーとしての実力は、石だかは家康の10分の1にも満たない19万4000石。地位も五大老の下に位置する五奉行の一人でしかありませんでした。大事な戦の能力も現場で指揮するより武器や食料の調達・輸送が得意な事務方タイプ。さらに致命的なのがリーダーとして今一つ人望に欠けること。人よりも組織を優先し、几帳面な性格から同僚のミスもすぐ上司の秀吉に報告。石田三成を嫌う武将が多くいました。家康にとっては石田三成など恐るるに足らず。協力する者もいないだろうと思っていたところ、家康についた大名が90家なのに対し、石田三成が集めた大名は109家。その中には五大老、五奉行の大半も含まれていました。さらに苦手をされていた戦場での采配でも関ヶ原での石田三成の布陣は後にドイツ軍の参謀が西軍の勝利と予測したほど見事なものでした。人気も実力もないと思われていた石田三成は、劣勢からどのようにして家康を脅かすほどの大軍勢を組織することができたのでしょうか?

 

戦国の事務方

石田三成は永禄3年(1560年)近江国の土豪の家に生まれました。幼い頃から寺に小僧として預けられ勉学に励みました。15歳の時、偶然寺に立ち寄った秀吉が石田三成の頭の良さに感心し近習にとりたてました。同じ近習仲間には武勇で知られた福島正則や加藤清正などがいました。しかし、彼ら現場派と違い石田三成はもっぱら事務能力が高い裏方タイプ。後方支援である武器や食料の調達で才能を発揮し、秀吉に一目置かれるようになりました。

そして28歳の時の九州征伐では、25万の兵と2万トンの馬を上方から九州に送るという日本史上類のない兵站作戦を計画。見事に成功させ戦を勝利に導きました。手柄を大きく評価され秀吉家臣団が天皇の行幸に同行する際も、その先頭を歩く栄誉を与えられました。近江佐和山19万4000石の大名へと出世していきました。寺の小僧から大名にまでのぼりつめた石田三成にとって秀吉は恩人中の恩人。常に豊臣家のためにという強い思いに満ちていました。しかし、この組織第一という考え方は時に他の同僚たちの間で軋轢を生むこともありました。

特に石田三成が戦奉行となった朝鮮出兵での加藤清正との対立はとりわけ激しいものでした。先頭を切って出陣した加藤清正は次々に敵の城を落としていきました。それに対し、石田三成はこの海外派兵の行く末を懸念していました。「秀吉様のご命令ではあるが結果的に豊臣家を衰退させるだけではないか」心から組織のことを心配していた石田三成は有利な段階での講和の道を探ろうとしました。しかし、これに同意しなかったのが加藤清正。石田三成の方針に反発し、現場は混乱状態に陥りました。危機感をつのらせた石田三成は帰国し、加藤清正が勝手な行動をとっていると秀吉の報告。清正は秀吉からちっ居を命じられることになり、以後石田三成の命を狙うほど憎むようになりました。組織のことを真剣に考えているのに嫌われてしまう石田三成。引き立ててくれていた秀吉が死ぬと豊臣政権で孤立した状態に陥りました。それでも決して生き方を変えませんでした。豊臣政権内で実権を拡大していく家康に対し、無謀ともいえる戦いを挑むことになるのです。

 

知恵①金や地位に対して潔癖であれ

慶長3年、病の床についた秀吉。6歳の豊臣秀頼の行く末を案じ、五大老と五奉行に対し我が子を支援するよう命じました。その秀吉が亡くなると、すかさず天下を我が物にしようと動き出したのが徳川家康です。家康は五大老筆頭という地位を利用し、秀吉が禁じていた政略結婚や知行の分配を独断で行うなど露骨に勢力を拡大。250万石の石高を持ち、戦でも秀でた家康に異をとなえる大名はいませんでした。

家康の独善的なやり方に不満をつのらせていたのが石田三成です。友人の大名・大谷吉継に「家康を討つ」と決意を打ち明けました。これを聞いて吉継はびっくり仰天。「19万4000石のお主が250万石の家康にかなうわけがない」と言って去りました。友人にさえ理解してもらえなかったものの、やるしかないと決意を固めた石田三成。それから数日後、大谷吉継が訪問してきました。一旦断ったはずの吉継はやっぱり協力すると申し入れてきたのです。なぜ吉継は考えを変えたのでしょうか?その理由はハッキリとは分かっていませんが、2人の関係を物語るエピソードが残っています。

それはまだ石田三成が元服前の近習時代のこと。織田信長に命じられ毛利と戦っていた秀吉。士気を高めようと石田三成に2000石の褒美を与えようとしました。しかし、石田三成はこれを固辞。その代わりに一人の男を近習に取り立ててくれるように頼みました。それが大谷吉継でした。吉継は高い能力を持ちながら認められず、くすぶっていた人物でした。石田三成の強い推薦で取り立てられた吉継は期待通り九州征伐などで功績を上げ、越前敦賀5万石の大名へと出世しました。友のためならすすんで褒美も投げ出す石田三成。その石田三成が命を捨てて豊臣家のために立とうとしている、例え敗れるにしても今こそ自分が力を貸す時だと吉継は考えたのかもしれません。

さらにもう一人、石田三成の傍らには心強い味方がいました。それは石田三成には過ぎたる家来と言われた名将・島左近です。もともと左近は大和国の領主の重臣で、戦のうまさで世間に名をとどろかせた人物でした。その後、主家を離れた島左近に様々な大名が士官の声をかけてきましたが、そのどれにも応じていませんでした。そうした中、島左近のもとにやってきたのが24歳の石田三成。この少し前、秀吉から近江4万石を与えられ、その組織の要になって欲しいと左近に申し入れました。このとき、石田三成が口にした契約金が石高の半分の2万石。これには左近も耳を疑いました。名将・左近のためなら全収入を半分を払っても惜しくないと考えたのです。その熱意にうたれ、左近は家臣になることを承諾しました。石田三成が普段から口にしていた言葉が伝わっています。

「奉公人は主人よりいただいたものはすべて主人のために使って残さないものだ。残すのは盗人であり、さらに使い過ぎて借金するのは愚人である」

地位や財産に目もくれず、ひたすら主や友のために生きたいと考えた石田三成。それはかつて秀吉から佐和山の石高の倍近い筑前筑後への栄転を打診されたさいも同様でした。事務処理が出来る自分が九州に行ってしまえば秀吉様が困ると主張し、出世を断ってしまったのです。どんな時でも清廉潔白を貫いてきた石田三成。その石田三成の決起は全国の武将たちの心を動かし、やがては大勢力の毛利輝元や宇喜多秀家を味方に加えることになっていきました。

 

知恵②誰もがわかる明快なプレゼンをせよ

石田三成の分かりやすいプレゼン能力が最も効果を上げたのが、関ヶ原の戦いの決起のさい全国の大名に送った書状です。それが「内府ちがひの条々」です。内府とは徳川家康のことで秀吉の死後行っていることの問題点を指摘した書状です。石田三成は簡潔な箇条書き形式をとり様々な角度から論じています。まず禁じられた大名同士の政略結婚を家康が行っているという法令違反。そして大坂城に人質として預けられた大名の妻子のうち自分に近しい者の妻子だけを国に帰している不平等。さらに本来、五大老や五奉行による合議制で決めることを一人で決めている独断性など全部で13もの問題点を列挙。その上で家康には秀頼を天下人にする気はないと結論づけ討伐軍に参加することの正当性を明快に記しています。それまで家康を恐れ、見て見ぬふりをしていた全国の武将たちですが、その非を客観的に指摘した石田三成の書状は義を通すことを誇りとする武士の心に火をつけました。この結果、全国109家もの大名が石田三成の同士として名乗りを上げました。その数は家康の東軍を凌駕。知らせを聞いた家康は顔面蒼白になったと記録されています。関ヶ原の戦いはこうして大方の予想を覆し、石田三成優勢の状況で幕を開けることになったのです。

 

鴨川の河原には、かつて時の権力者にさからった多くの政治犯たちが処刑されたという処刑場がありました。六条河原と言います。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成もこの場所で処刑されたと言われています。刑が執行されるさい石田三成は僧侶の念仏を断り「あの世で太閤殿下に会うのが楽しみだ」と言ったそうです。敗れたとはいえ最後まで豊臣家に尽くし秀吉の恩に報いたという思いがあったのでしょう。

石田三成の首は三条大橋のたもとに晒されたあと、京都の北へと運ばれました。そして処刑の後、大徳寺三玄院の住職が供養を願い出たころから遺骸はここに埋葬されました。江戸時代、謀反人としてほとんど顧みられることのなかった石田三成ですが、明治40年に京都大学が石田三成の墓を発掘調査したところ頭蓋骨や大腿骨などの遺骨が見つかりました。推定される石田三成の身長は約156cm、骨の状態から虚弱体質だったことも分かりました。後頭部が突き出た才槌頭で鼻筋は通っていて優男風ですが、歯はかなり前に突き出た出っ歯だったそうです。

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