イザベラ・バード 明治日本を旅した英国女性|知恵泉

NHK総合テレビの「先人たちの底力 知恵泉」で明治の旅行家 イザベラ・バードが放送されました。明治初頭、一人のイギリス人女性が日本にやってきました。女性の名はイザベラ・バード。アメリカ、カナダ、オーストラリアなど世界を巡り紀行文を発表していた旅行家です。彼女が来日した目的は開国したばかりの日本を世界に向けてレポートすることでした。イザベラ・バードがまず訪れたのは東北、北海道。当時、外国人がほとんど足を踏み入れたことのない未知の世界でした。

 

未知の国 日本へ

イザベラ・バードは1831年10月15日、イギリス・ヨークシャーの牧師の家に生まれました。利発な少女でしたが身体が弱く、持病の背中の痛みに苦しんでいました。20歳を過ぎても痛みがとれず医者に相談すると「旅に出てみてはどうか?」とアドバイスされました。戸惑いながらもアメリカ、カナダを旅してみると不思議なことに体の痛みが消えてしまいました。旅の魅力にハマッたイザベラ・バードはその後、世界各地を旅行。オーストラリア、ニュージーランドを巡り標高4000メートルを超える登山に挑戦するまでに。体験したことをまとめて旅行記を出版すると一躍人気作家となりました。しかし、執筆や講演依頼が殺到し旅に行けなくなると再び体調が悪化。そこで次は南米に向かおうと考えていたところ、ある筋から「日本に来て奥地を旅して欲しい」という依頼が。当時、日本にいたイギリス公使ハリー・パークスが関わっていたのではないかと考えられています。1878年4月1日、イザベラ・バードは日本に向けて出発。このとき46歳、未知なる旅の始まりでした。

 

知恵①人々の生活の中に飛び込め!

1878年5月20日、イザベラ・バードは横浜港に到着しました。まず目指したのは東北、北海道。外国人がほとんど足を踏み入れたことのないエリアでした。奥地を旅するにあたり随行させたのは英語を話せる19歳の若者・伊藤鶴吉(いとうつるきち)だけでした。日本にいたイギリス人たちは護衛もなく2人きりで奥地に行こうとするイザベラ・バードを心配。万全の対策をするべきだとアドバイスしました。奥地にはろくな宿も食べ物もないと言って、赤ワインや肉スープの缶詰などを持たせようとしました。しかし、イザベラ・バードはそれを拒否。日本人と同じ生活を味わいたいと最低限の荷物だけにしました。6月10日、東北に向け出発したイザベラ・バード。最初に訪ねた名所は日光でした。煌びやかな東照宮がある日光は、すでに外国人の間でも人気の観光スポットで宿や別荘も多く建てられていました。ここで快適に過ごしたイザベラ・バードは日光を心行くまで堪能しました。

しかし、日光以外の場所に踏み込むと宿泊場所は庶民が使う旅籠のみ。泊まってみると大量のノミが潜んでいて、その痒さに悲鳴を上げることに。それでも何とか眠ろうとすると障子にあいていた穴に沢山の目が。

「障子は穴だらけでどの穴からも人の目がしょっちゅう覗いていた。プライバシーなど思い起こすことさえできないぜいたく品だった」

西洋人など見たこともない地方の人々は、イザベラ・バード見たさに宿に殺到し、その数100人以上になる時も。イザベラ・バードは身の危険を感じたものの旅を続けているとあることに気づきました。

「覗かれることはあっても身の危険がない。眠っている間に物が盗まれるということもない」

予想外の治安の良さに驚きました。その後、山形に向かうことにし米沢に入るため新潟から十三峠を進みました。十三峠は急峻な坂道で知られていた難所、旅慣れぬ外国人なら避けた方が無難でした。しかし、イザベラ・バードは日本を知るため地元の人と同じように峠を越えることにこだわりました。あまりに険しい坂にさすがのイザベラ・バードも泣き言を言う程でしたが、最後の峠を越えるとイザベラ・バードの目に飛びこんできたのは一面の田園風景でした。

「まさしくエデンの園である。鋤の代わりに鉛筆で耕したかのようであり米、綿、玉蜀黍、茄子、胡桃、西瓜が豊かに育っている。晴れやかにして豊穣なる大地でありアジアのアルカディア(桃源郷)である」

イザベラ・バードはここで名所として知られる赤湯温泉の宿で過ごす予定でした。しかし、着いた日はちょうど祭りの日でどんちゃん騒ぎで三味線や琴がそこら中で鳴り響いていました。生活に入り込むのが信条のイザベラ・バードもさすがに根を上げ、もっと静かな町へと移動しました。しかし、この移動が思わぬ発見に。16km程離れた所で、かみのやま温泉を偶然見つけたのです。

「上の方には美しい宿屋が点在し庭のあるすてきな家が並び、たくさんの小道が走っている。もしここが外国人の遊歩区域内であれば外国人はここが健康によい保養地になり、あちこちに出かけて美しい景色を楽しめる所であることがきっとわかると思われる」

次第に日本の魅力を発見していったイザベラ・バードですが、どうしても我慢できなかったことがあります。それは日本食。旅の途中、どこでも食事についてくる沢庵については「スカンクのようなひどい臭い」と言い放っています。また蕎麦は「色も太さもミミズそっくりの悪そうなパスタ」と。さらにお味噌汁は「汚れた肉の汁」と言っています。しかし、しぶとく日本食に挑戦し続けるうち魚や野菜を様々な調理法で多くの料理に変化させる和食の技に気づきました。そのために生まれた調理道具の多様さと機能美に感心し、高く評価しています。本当の魅力は人々の生活の中に飛び込んでこそ分かるもの、それこそがイザベラ・バード流日本を楽しむ極意だったのです。

 

知恵②科学的な目で見よ!

約半年に渡って日本を旅し、人々の生活の中に入り込んだイザベラ・バードが心がけていたのが、科学的な目で見ること。つまり客観的なデータに基づいて論理的に掘り下げることでした。春日部に宿泊した時のこと、宿に入ってイザベラ・バードがまず興味を持ったのが畳でした。イザベラ・バードは畳を「さっぱりし柔らかく、カーペットの最高級品にも劣らない」と評価し気に入りました。しかし、それだけにとどまらず快適さの理由を踏み込んで検証しています。

「長さが五フィート九インチ、幅が三フィート、厚さが二・五インチある。ざわざわした稲わらをきつく固めて土台を作り表面を非常にきめ細かく編んだほとんど真っ白に近い敷物で覆ってある。ふつうは一枚ごとに紺色の布で縁取られている」

正確なデータとともに外から見ただけでは分からない製作方法まで聞き取りによって詳細に検証。その結果イザベラ・バードは日本の風景に畳が大きく関わっていることに気づきました。日本人が部屋の大きさを畳の数であらわし、建築物全体の大きさを決めている、日本の文化に畳が深く影響していることを解き明かしています。こうした科学的な分析のためイザベラ・バードが用いたのがスケッチです。旅の最後、イザベラ・バードは日本という国をこう総括しています。

「内地に住む日本人は未開人であるどころか、とても親切で心優しく礼儀正しい。それで日本の従者一人以外にはだれも伴わずとも外国人がほとんど訪れない地域を無礼な目にも強奪にも一度もあわないで旅することができる。私がこうして1200マイルにもわたって旅ができたように」

帰国後、イザベラ・バードが出版した「日本奥地紀行」により日本は極めてオススメの国として世界中に紹介されることになりました。

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