杉原千畝 不屈の生涯 ~人生「まさか」の生かし方~|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で杉原千畝 不屈の生涯 人生まさか!の生かし方が放送されました。第二次世界大戦下のヨーロッパでナチス・ドイツの迫害から逃れようとしていたユダヤ人たち。彼らを救った日本人がいました。その名は杉原千畝(すぎはらちうね)「命のビザ」と呼ばれるユダヤ人がヨーロッパを脱出するためのビザを独断で発行した外交官です。しかし、杉原千畝はもともと最新のヨーロッパ情勢を探るために送り込まれた情報収集のプロ。大勢のユダヤ人を救うことになるなど全くの想定外でした。実は杉原千畝の一生は次々と襲い来る人生の「まさか」に立ち向かう日々だったのです。

 

人生を決めた運命の出会い

1900年1月1日、杉原千畝は今の岐阜県八百津町に6人兄弟の次男として生まれました。幼い頃からとても優秀な少年で、小学校卒業時の成績表では全ての科目で甲でした。1912年、中学生になった杉原千畝はその一生を方向付けるものと出会いました。それは英語。杉原千畝は後にこう語っています。

「私は元来英語がほかの科よりも余程好きで、英語を毎日しゃべる職業に就くのが何だか開けている人間のすることのように思われた」(研究者「受験と学生」より)

一生懸命勉強して将来は英語で身をたてたいと杉原千畝の思いは世界へと広がっていきました。ところが、1917年、中学を卒業した杉原千畝の身に最初のまさかが。父親に医者になれと言われてしまったのです。しかし杉原千畝は医学専門学校の試験日、白紙答案を出しました。不合格になれば父も諦め、英語への道を進ませてくれると考えたのです。しかし、父は優秀な息子が不合格なはずはないと学校に問合せ白紙答案を知りました。杉原千畝は勘当されてしまいました。それでも杉原千畝は家を出て独力で英語を学ぶ道を選びました。18歳になった杉原千畝は東京へ。今の早稲田大学教育学部で英語を学び始めました。学費や生活費をアルバイトでまかなわなければならなかった杉原千畝は新聞配達、英語塾の講師などありとあらゆる仕事をしながら英語の世界に没頭。そして1919年5月下旬、外務省が募集する外国への留学試験があることを知りました。この試験に合格すれば3年間、毎年最大で250円(今でいう110万円)を貰いながら海外留学が出来ます。しかも、成績次第で外交官にもなれるという破格の好条件でした。

 

知恵①やりたくないことにこそチャンスあり!

しかし、外務省留学生は肝心の英語の学生募集がありませんでした。それでも苦学生の杉原千畝にとって給料を貰いながら留学できるのは願ってもないチャンス。受験を決意しました。熟慮の末、杉原千畝が希望したのはスペイン語でした。スペイン語は南アメリカでも使われている言語。当時、日本人の移民が増える中その人気が高まっていました。試験は無事合格しましたが、スペイン語の希望者が多かったため杉原千畝は人気がないロシア語の担当に。その年の10月、杉原千畝の留学が始まりました。行き先はロシアではなく中国東北部にある国際都市ハルビンでした。ロシア革命の直後、ハルビンには新しくできたソビエト政権から逃げてきた多くのロシア人が住んでいました。間もなく杉原千畝はハルビンの日本領事館で意外な光景を目にしました。

「多くのロシア人が旅券の査証を求めに来るが領事館においてもロシア語を知るもの僅か2,3名に過ぎない有様だった」

もともと不本意だったロシア語ですが、杉原千畝は気持ちを入れ替えロシア語で身をたてることに決めました。それから杉原千畝はロシア語しか使わない生活につとめました。ロシア語文法を教えてくれる家庭教師を自腹で雇い、常にロシア語の辞書を持ち歩き1ページの単語を全て覚えては捨てていくというやり方で頭に叩き込んだと言います。ロシア語を志してから7年後、杉原千畝は大きな仕事を成し遂げました。「ソビエト連邦国民経済大観」と題する膨大な内容のリポートを東京の外務省に提出。この頃、杉原千畝は現地で広い人脈を築き上げていました。そうした友人のネットワークを駆使して、まだ知られざるソビエトの内部情報を入手したのです。このリポートは非常に高く評価され役立つ資料として外務省内の多くの関係部署に配布されました。まさかの連続を乗り越えロシア・ソビエト問題の専門家としての地位を獲得した26歳の快挙でした。

 

大活躍の対ソビエト交渉

1932年、中国東北部に満州国が建国。その政府は大勢の日本人が参加し管理している海外政権でした。この年、杉原千畝は卓越したロシア語の能力をかわれ満州国外交部に引き抜かれました。当時、満州国には緊張状態にあったソビエトとの間に大きな懸案事項がありました。国内にソビエトが権利を持つ鉄道があり、これを買いとるという課題です。この交渉を中心となって進めたのが杉原千畝です。ソビエト側はその価値を6億2500万円としたのに対し、満州国が提示したのは5000万円。その額には大きな開きがありました。そこで満州国外交部に所属する杉原千畝は行動を開始。これまで長年信頼関係を築き上げてきた大勢のロシア人たちの協力による情報収集です。彼らの情報ネットワークを使いソビエト側が隠し持つ情報を次々と手に入れていきました。例えば、多くの線路が修復の必要があるにも関わらず放置されていること。また数多くの車両が秘密裏にソビエト領内に移されていることなど。ソビエトがいうほどこの鉄道には資産価値がなかったのです。こうした事実をつきつけ杉原千畝はソビエトを追い込んでいきました。3年に渡る交渉を経た1935年3月、杉原千畝は当初ソビエトが提示していた価格の約5分の1、1億4000万円で交渉を成立させました。満州国外交部に杉原千畝あり、その存在を広く知らしめたのです。ところがわずか4か月後、杉原千畝は満州国外交部を辞職。日本へ帰国してしまいました。この突然の辞職は優秀であるがゆえに起きた人生のまさかへの杉原千畝の生き方そのものでした。

 

知恵②譲れない一線は守りぬけ!

実は杉原千畝がソビエトとの交渉で活躍し始めた頃、杉原千畝に近づいてくる軍人がいました。橋本欣五郎(はしもときんごろう)です。当時、日本陸軍の様々な謀略に関わり陸軍きっての暴れん坊の呼ばれる男です。橋本は杉原千畝に「陸軍のスパイになれ。金はふんだんに用意してある」と声をかけていました。満州国の後ろ盾であり大きな力を持つ軍からの誘い。これに応じればより大きな活躍が出来るはずです。しかし杉原千畝は橋本欣五郎の誘いをキッパリと断りました。陸軍に協力すればロシア人の仲間たちを危険な目に合わせる可能性が高かったからです。この頃、満州に駐留していた陸軍・関東軍は敵対勢力に次々と謀略を仕掛けていました。その手段は破壊工作や暗殺など暴力で相手を陥れるやり方です。一方、杉原千畝が外交官として行う情報収集は相手と良い関係を目指すためのもの。軍のスパイとは目指す方向が根本的に違いました。このときの気持ちを杉原千畝は後にこう記しています。

「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えがホトホト嫌になった」(杉原千畝 手記より)

満州国外交部を辞職した杉原千畝は1935年7月、満州を去りました。35歳、失意の帰国でした。

 

遭遇 ユダヤ難民の悲劇

杉原千畝がまだ満州で活躍していた頃、ヨーロッパでは新たな戦争の気配が高まっていました。1933年、ドイツでヒトラーが率いるナチ党が政権を奪取。またソビエトでは新たな指導者ヨシフ・スターリンがドイツと緊張関係にありました。危機をむかえたヨーロッパ情勢を探るため1939年8月、杉原千畝は外務省からリトアニアに派遣されました。家族と共に首都カウナスの日本領事館に着任。その数日後、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まりました。続いてソビエトもポーランドに攻め入り、国としてのポーランドは消滅しました。

1940年7月18日、かつてポーランドに住んでいたユダヤ人たちが集まってきました。ドイツに占領されたポーランドではユダヤ人に対する徹底した人種差別政策が行われていました。弾圧を受け暮らしを破壊されたユダヤ人は次々と国外へ脱出。命からがら逃げてきて難民となった彼らは杉原千畝に日本を通過するためのビザの発行を求めました。一刻も早くヨーロッパを脱出し安全な国へ移住するためです。当時、ヨーロッパに西側はすでにドイツに占領されていました。リトアニアもどうなるか分かりません。ユダヤ人たちが生き残るには東へ抜けて日本に上陸、船で北米などの安全な国へ行くしかありませんでした。そのため、日本の通過ビザを貰えるかどうかが生死を分ける重要な鍵となったのです。しかしビザを出すには日本政府が定める条件を彼らが満たさねばなりません。杉原千畝は条件を満たさないユダヤ人にビザを出しても良いか日本の外務省に何度も電報を出して尋ねました。外務省からの回答はいずれも「規則を守れ」というものでした。その間にも日本領事館にビザを求めるユダヤ人は続々と増えていました。

「元々彼らは私にとって何のゆかりもない赤の他人にすぎない。しかし、全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで旅行書類の不備を盾にとってビザを拒否してもかまわないとでもいうのか。それが果たして国益にかなうことだというのか」(杉原千畝 手記より)

7月26日、ついに杉原千畝は決断しました。独自の判断でビザを発行すべく領事館の門を開いたのです。そこから杉原千畝はビザを書くことに没頭する毎日を送りました。1日に目指したビザの発行数は300人分にものぼりました。万年筆は壊れ、ペンを持つ指にはマメができ手首や肩が痛み出すほどの過酷な作業でした。その状況が3週間続いた後の8月16日、日本の外務省から新たな電報が届きました。杉原ビザを持つ人々の入国が問題となっていることを知らせるものでした。それでも杉原千畝は外務省にあえて返事を出さず、ユダヤ人へのビザを出し続けました。杉原千畝には秘策がありました。8月28日、リトアニアがソビエトに併合されたことを受けて日本領事館は閉鎖。杉原千畝は国外退去せざるおえなくなりました。そして4日後の9月1日、杉原千畝はようやく外務省へ返事を出しました。

「ユダヤ人の事情は同情すべきものがあります。そこで日本に渡る船に乗るまでに行き先国の入国許可を得ること、日本からその国へ向かう船の予約を済ませること、旅費については日本に送ってもらう手配を済ませること、以上について誓約させたうえでそうした人物に限ってビザを出しています」

杉原千畝はユダヤ難民の特殊な事情を考慮してビザの発給条件を満たすための猶予を与えたことを報告。人道的な配慮から独自の判断をしたことを、このとき初めて外務省に伝えたのです。2日後の9月3日、返事が届きました。そこでは杉原ビザで混乱が起きていることを改めて指摘した上で、「以後は厳重にビザ発給の規則を守れ」と今後の対応を指示しています。杉原千畝はその持てる力を全て発揮して出来ることをやり抜きました。通称「命のビザ」は分かっているだけで2139にものぼります。1枚のビザが家族に適用される場合も含め、約6000人の命が救われました。杉原千畝は人生最大のまさかと向き合う中で、世界で語り継がれる仕事を成し遂げたのです。

タグ:

コメントをどうぞ

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。コメントは管理人の承認後に表示されますのでしばらくお待ち下さい(スパム対策)