カラヴァッジョ 幻の光 救いの闇 世界初公開の傑作|日曜美術館

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、16世紀の終わりローマに彗星のごとく現れ、西洋絵画の歴史を一変させた天才にして殺人者です。

ローマへ

北イタリアで育ちミラノで修行をしたカラヴァッジョがローマにやってきたのは、1590年代中頃。ローマは当時カトリック教会の建設ラッシュで、成功を夢見る芸術家たちも各地から集まっていました。

20代半ばだったカラヴァッジョは、ローマでは故郷の村の名前であるカラヴァッジョと名乗りました。やがて、写実が得意な絵描きとして頭角を現します。

その頃の作品が「女占い師」です。ロマの占い師が若者の手相を見るふりをして指輪を盗むという光景。街角の人々の姿をありのままに描いた風俗画は、当時のローマでは珍しく人々に衝撃を与えました。

「女占い師」

中でもカラヴァッジョの才能をいち早く見抜いたのが、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿でした。貧しかったカラヴァッジョを自らの屋敷に住まわせ、絵に没頭できる環境を整えました。

「バッカス」

そうした中で生まれた作品の一つが「バッカス」です。ローマの神話に登場する酒の神が、熟した果物を前に怪しい表情を浮かべています。これはカラヴァッジョ自身がモデルだと言われています。傍らのワインのビンには、この絵を描いているカラヴァッジョ自身の姿が写っています。

カラヴァッジョが写実が得意な画家として注目された頃、ローマでは宗教をめぐる論争の嵐が吹き荒れていました。カトリックを否定する宗教改革に対抗するため、異端者の公開処刑が毎日のように行われていたのです。カラヴァッジョの目の前には血なまぐさい現実が広がっていました。

1600年、カトリックの聖なる年にカラヴァッジョは大胆な宗教画を発表し、一躍脚光を浴びました。

乱れた生活

光と闇の絵によってローマ随一の画家となったカラヴァッジョですが、画家としての栄光とは裏腹に生活は乱れていきました。夜な夜な仲間と街に繰り出しては遊びまわり、暴力沙汰をいくたびも引き起こすようになったのです。

作品以外にカラヴァッジョが残したのは、警察調書と裁判記録だけです。その記録は20件にも及びます。絵筆よりも剣を手にしている時間の方が長いと言われるほど、カラヴァッジョの日常は殺気立っていました。

殺人… 犯罪者に

そして1606年5月28日、ローマの路地で最悪の事態が起きました。対立していたグループと賭けテニスのはてに決闘。カラヴァッジョは相手の一人を刺し殺してしまったのです。

ローマから逃げ出したカラヴァッジョに死刑宣告が下されました。天才画家は一夜にして逃亡者になったのです。

逃亡生活

最初に逃げ込んだのは、ローマから50km東にある山の中の町。ここにはカラヴァッジョの故郷であるカラヴァッジョ村の領主だったコロンナ家の屋敷がありました。

カラヴァッジョがこの時に描いたのが「法悦のマグダラのマリア」です。マグダラのマリアは、キリストの死と復活を見届けたと言われる聖女です。カトリックでは娼婦であったという伝承から罪深い女性とされながらも、魅力的な肉体を持つ妖しげな美女として表されてきました。

ところが、カラヴァッジョは祈りの果てに神とつながった聖女の一瞬を闇に溶けていくように描いています。まるで苦しみ喘ぎながらも闇に救いを求めているようなマグダラのマリア。

「法悦のマグラダのマリア」が見つかったのは2014年。手の描き方が真筆の決め手となりました。

故郷と闇

ミラノで生まれたカラヴァッジョはペストの猛威から逃れるため、6歳の時にロンバルディア地方のカラヴァッジョ村に家族で避難してきました。しかし、父も祖父もすぐにペストに倒れ、19歳の時に母も失いました。貧困死の影が間近にあった少年時代でした。

カラヴァッジョは根っからのロンバルディア地方の人でした。ここで生まれ育ち絵を学び描き始めたのです。このロンバルディア地方の絵がカラヴァッジョに大きな影響を与えたのは間違いありません。現実をありのまま描くリアリズム苦しみにあえぐ庶民の姿を見つめる眼差しです。

(美術史家ジャコモ・ベッラ)

教会は祈りの場であると同時に絵と出会う場所でもありました。カラヴァッジョ村の礼拝堂を飾る祭壇画は、いずれも写実的で光と闇が交錯しています。

ミラノの教会にある「聖カタリナと皇女ファウスティーナ」は夜の絵と言われるほど、深い闇が画面全体を覆い、人々の姿がリアルに描かれています。

カラヴァッジョはこの絵を見ていると思います。この光と闇のコントラストは若い画家にとって魅力的だったはずです。光と闇を描くことで現実を表現できることを感じ取ったでしょう。(ミラノ・サンタンジェロ教会レナート修道士)

カラヴァッジョのルーツには、すでに光と闇の表現があったのです。

さらに、故郷にはもう一つカラヴァッジョに大きな影響を与えたものがあります。それは「カラヴァッジョの聖母」という奇跡です。突然、農婦の前に聖母が現れたという奇跡が起きた村で、古くから多くの信者がやってくる巡礼地でした。この聖堂には今も年間200万人の巡礼者が訪れます。

聖堂というと建物のことを思い浮かべますが、実はそこは苦しみの集まる場所なんです。その場所の光景はカラヴァッジョの原風景となり、画家の人生に深く刻まれたはずです。神の助けに一縷の望みを託してここにやってくる病んだ人や貧しい人々の姿、そうした人々が聖母に一目会いたいと絶望と隣り合わせで祈りを捧げる光景は、カラヴァッジョに強烈な印象を与えたはずです。そして、それが画家の絵の土台になったと私は思います。

(美術史家ジャコモ・ベッラ)

少年時代、カラヴァッジョが故郷で見た祈りの姿。その光景を彷彿とさせる作品が「ロレートの聖母」です。巡礼者の前に突然聖母が現れた一瞬です。厳しい現実と切実な祈りの光景。カラヴァッジョの光と闇の絵には、それを見つめる画家のまなざしが刻まれていました。

「法悦のマグダラのマリア」を描いた後、カラヴァッジョはナポリ、マルタやシチリアに逃亡を続けました。そして恩赦を得ようと騎士になることを望み、辿り着いたマルタ島。カラヴァッジョはここで生涯最大の作品に取り組みました。それが「洗礼者ヨハネの斬首」です。

「洗礼者ヨハネの斬首」

画面の大部分をが覆っています。ヨハネが信仰を守るため斬首された直後の光景。生と死が交錯する一瞬を闇が見つめているようです。さらに「聖ウルスラの殉教」では闇が世界を支配しています。

「聖ウルスラの殉教」

「聖ウルスラの殉教」では闇が主役です。そこにあるのは亡霊のような人の姿で、闇にはなにも描かれていません。逃亡の中で作品は闇が光をむしばんでいき画面をどんどん支配していきます。その闇とはカラヴァッジョの絵にもともと潜んでいるもので、マグダラのマリアの絵をきっかけにはっきりと広がり始めたのです。

(美術史家ロッセラ・ヴォドレ)

カラヴァッジョの最期

4年に渡る逃走の果て1610年7月、カラヴァッジョは灼熱の海辺をさまよい熱病に倒れ波乱に満ちた38年の生涯を終えました。

カラヴァッジョが最後まで持っていたとされる作品が「法悦のマグダラのマリア」でした。カラヴァッジョの唯一の肉声が裁判記録に残っています。

よい画家とは現実をきちんと写しとることが出来る者

(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ)

カラヴァッジョの現実、それは苦しみも悲しみもそして救いさえも宿す闇でした。

「日曜美術館」
幻の光 救いの闇
カラヴァッジョ 世界初公開の傑作

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