五代友厚 明治の実業家の大阪復興|先人たちの底力 知恵泉

早熟のエリート 世界に目覚める

五代友厚(ごだいともあつ)が薩摩に生まれたのは、天保6年(1836年)のことでした。父は儒学者で、幼い頃から文武に秀でた少年だったと伝えられています。

 

14歳の時、人生を変える貴重な資料を目にしました。それは世界地図。藩が外国商人から購入した詳細なもので、五代家はその複写を請け負ったのです。初めて知る各国の様子に五代友厚は驚愕しました。

 

そんな中、一つの事実に注目しました。それはアジアの隅々にまで勢力を伸ばしていたイギリスが日本と同じような小さな島国だったということでした。

日本も世界有数の国になれるかもしれない

五代友厚の一生を貫く大きなテーマとなりました。

 

幕末 ビジネスで藩に貢献

その後、日本が開国に踏み切ると五代友厚は薩摩藩の貿易係として長崎に派遣されました。この地で五代友厚はイギリス商人と交渉し、近代兵器の輸入や薩摩の特産品の輸出事業で活躍。頭角をあらわしていきました。

 

さらに、藩の命を受けて上海イギリスなどに渡航。当時としては珍しい海外経験を積んでいきました。

 

貿易により培われた経済センス、そして外国人と対等に交渉できる英語力も持ち合わせていた五代友厚。西郷隆盛や大久保利通らが倒幕運動を進める中、五代友厚は軍備や財政面から藩を支え明治維新に大きく貢献しました。

 

大阪の改革に臨む

その後、明治の世になり新たな体制がスタートすると新政府は大阪に五代友厚を派遣。大阪府権判事として、五代友厚は日本第二の都市であり商業の中心でもあった大阪の近代化を任されることになりました。

 

このとき、五代友厚は34歳。17年に及ぶ経済改革の始まりでした。

 

大阪での活躍

明治時代、造幣局が最初におかれたのが大阪でした。日本最初の近代的な貨幣を作るにあたり五代友厚が海外から輸入したのが圧印機でした。今、私たちが使う「円」の最初の1枚は五代友厚が生み出していたのです。

 

大不況に悩む大阪

役人として精力的に働き始めた五代友厚でしたが、赴任した大阪は深刻な経済不況に陥っていました。

 

その理由の一つは、日本最大の米市場・堂島米会所が廃止されたことでした。江戸時代の大阪は「天下の台所」と言われ、全国の藩の年貢米が集められる場所でした。しかし、この制度が廃止され大阪は物流センターとしての機能を失い衰退しかけていたのです。

 

もう一つの理由が、大阪を支えてきた豪商たちの倒産でした。幕末動乱のさい、幕府や全国の藩は軍備を整えるために大阪の豪商たちから多額の借金をしていました。しかし、明治に入り幕藩体制が崩壊すると借金の踏み倒しが続出。いわゆる貸し倒れにより商人の破産が相次いだのです。

 

豪商たちが守ってきた秩序が崩壊したことで、仕事の奪い合いや潰し合いが横行。無法状態と化していたのです。

 

明治2年、五代友厚は横浜への転勤辞令を受けますが、大阪のあまりの惨状を見て官職を辞し実業家として大阪にとどまることを決意しました。

 

どうすれば大阪は立ち直れるのか、ヒントとなったのが幕末の薩摩でのある経験でした。

 

知恵その一
潰しあうより支えあえ!

文久3年(1863年)外国人商人の殺傷事件をきっかけに薩摩藩とイギリスは激しく対立。互いに一歩もひかない戦闘を繰り広げ、双方に多数の死者を出しました。

 

そんな中、突如イギリス艦隊に姿を現したのが五代友厚。提督キューパーに対し、薩摩の戦力や士気はイギリス側に匹敵するほど充実してる、争うより和解した方が双方にメリットがあるのではないかと提案。この言葉が契機になったのかイギリス艦隊は撤退。

 

その後、薩摩とイギリスは交渉を通じて和解。次第に貿易を行う仲間となっていきました。イギリスとの協力は薩摩の国力を高め、幕府との戦いを有利に進めることに繋がりました。

 

争う人々を和解させた経験を持つ五代友厚は、不況下で生き残りをかけ仕事の奪い合いを行っていた大阪商人たちを集め「商売敵と力を合わせろ」と伝えました。反発する商人に対し五代友厚は説明しました。

 

外国ではある人が事業を思いつくと、それに賛同した人が共同で出資、呼びかけた人は元手が増えるため大きな利益がある一方、それを分配すれば出資した人も儲かると。これは五代友厚がイギリスで目の当たりにした株式会社の概念です。もともとは大航海時代のヨーロッパで航海にかかる費用の出資を広く募ったことから生まれた考え方です。

 

そうそうたる名家の主たちが、五代友厚の計画に参加していきました。

 

こうして五代友厚たちが明治11年に設立したのが大阪株式取引所(現在の大阪取引所)です。設立発起人となった五代友厚は会議の席上でこう発しています。

 

会社が栄えるか滅びるかはその経営に携わる我々が義務を果たすことはもちろん、お互いに親密にし友情を持って互いに助けあわなければならない。

 

この結果、大阪では炭鉱や鉄道など商人同士による様々な共同事業が発足。大阪経済はこうして復興の糸口を見つけていったのです。

 

商人文化の灯を消すな

五代友厚によってようやく活力を取り戻し始めた大阪。一方で、五代友厚には気になっていたことがありました。それは日本一商いがうまいと言われた大阪の商人文化の衰退です。

 

かつて、大阪商人が何よりも大切に考えていたのは信用と算用。互いの信頼を裏切らない安心できる商取引や収支を見極める高いビジネススキルのことです。

 

しかし、幕末明治の混乱で老舗企業が次々と倒産。古き良き商人文化が廃れつつありました。約300年にわたって育まれてきた伝統を新しい時代に引き継げないか、五代友厚が思いついたのはまたしても海外の事例でした。

 

知恵その二
商人文化を継承するしくみをつくれ!

五代友厚は32歳の時に訪れたヨーロッパ各国で、あるユニークな集まりを目にしていました。それは商業会議所。商人たちによる自主的な団体です。取引上の混乱や争いを防ぐためのルールを定めたり、国や政府に対し共同で提案したりするための組織でした。

 

この仕組みを大阪に取り込めば商人文化が継承できるのではないかと考えた五代友厚は、戸惑う商人たちを説得し明治11年、組織はスタートしました。大阪商法会議所です。ここで定期的に開かれる会合には誰でも参加可能で、入会者は300人にものぼりました。

 

この商法会議所のもと業種ごとの様々な組合が発足。公正な商取引を行うための書式づくりや適切な支払期限の設定など、基本的なルールが整備されていきました。それにより取引上の行き違いや支払不履行などが大幅に減少。かつての信用第一とした商習慣が大阪に戻ってきました。

 

さらに、五代友厚が取り組んだのは商家が長年培ってきたビジネススキルを伝承する仕組みを作ること。実現したのが大阪商業講習所です。それまでは商家に弟子入りし何年もかけないと学べなかった商売のノウハウを、五代友厚は新しい時代に合わせてカリキュラム化し誰でも学べるようにしたのです。

 

講習所では簿記や算術など基礎となる知識だけでなく、新しく出現した銀行の窓口業務の実技まで多彩な科目がもうけられました。当時の新聞が100人以上の入学希望者が殺到したと報じています。

 

この学校からはその後、日本経済を支える企業家が幾人も輩出されました。野村徳七や鳥井信治郎などがその代表です。学校は後に大阪市立大学などに発展。こうした五代友厚の教育事業もきっかけとなって商売の街・大阪の活気は蘇り、その後も優れた商人たちが続々と登場しました。

 

彼らの活躍によって不況を脱した大阪は飛躍的に発展。昭和の初めには東京を凌駕する経済都市となり、大大阪とまで呼ばれるようになりました。その後、訪れた敗戦後の復興の過程でも食品、繊維など大阪の企業が日本の経済成長を支えました。

 

そして80年代以降、日本はジャパンアズナンバーワンと呼ばれ世界を席巻する経済大国となりました。

 

「先人たちの底力 知恵泉」
明治の実業家 五代友厚の大阪復興

この記事のコメント