司馬遷と武帝|古代中国 英雄伝説

紀元前2世紀、漢王朝は中央アジアにまで勢力を拡大していました。このとき、王朝に君臨していたのが第7代皇帝・武帝です。積極的な対外戦争を重ね、漢をかつてない巨大帝国に成長させました。

 

武帝

 

武帝の権力が頂点にあった時、その行いをただ一人敢然と批判する人物が現れました。歴史家・司馬遷(しばせん)です。

 

司馬遷

 

今から4000年以上前に生まれた中国文明。その誕生以来の歴史を記したのが司馬遷の「史記」です。その数130巻。古代の王朝の興亡が克明に、そして系統的に記録されていることから中国最古の通史とされています。

 

「史記」が誕生したのは、約2000年前の漢王朝の最盛期でした。第七代皇帝の武帝はその名の通り、武力で周辺地域を平らげ広大な帝国を築き上げようとしました。しかし、その野望の前に大きな敵が立ちはだかっていました。北方の遊牧民族である匈奴です。

 

漢の時代、その勢力はモンゴル高原を中心に黄河の北にまで及んでいました。匈奴との戦いに力を傾ける漢。その最中に起こった事件をきっかけに司馬遷は「史記」執筆に打ち込むことになりました。

 

都を離れ西域を目指す一人の将軍の姿があった。その名は李陵。武帝の命で匈奴討伐に向かうのである。ある時、3万という匈奴の大軍に遭遇する。李陵が率いたのはわずか5000だった。大軍を相手に一歩も引くことなく奮闘する李陵。しかし圧倒的な兵力差を前にやがて刀折れ矢が尽き、李陵は生きて匈奴の捕虜となった。李陵の降伏を知った武帝は烈火のごとく怒る。家臣たちも口々に李陵を非難し始めた。その中にただ一人李陵を弁護しようとした男がいた。司馬遷だった。

 

司馬遷は武帝の側に仕える太史公、過去の出来事を記録する役目でした。李陵の事件について司馬遷は友人にあてた手紙に「援軍が来ず李陵は敗北した」と記しています。その援軍を指揮した将軍は、武帝が寵愛した側室の兄であることが分かっています。李陵の弁護は、その将軍を非難することに繋がるため家臣たちはみな口をつぐんだと言われています。

 

しかし、司馬遷はただ一人李陵を弁護したのです。

 

李陵は奮戦し匈奴をふるえあがらせた。生きて降伏したのはいつか再び漢のために尽くすためだ。

 

しかし、この言葉が武帝の逆鱗にふれてしまいました。司馬遷に与えられたのは宮刑。強制的に去勢の手術を受けさせる屈辱的な刑罰でした。

 

光の射さない暗い牢獄で刑にふくすこと3年。牢を出た司馬遷は「史記」の執筆に生涯を捧げました

 

軍備の増強に力を注ぎ続ける漢王朝。武帝の宿敵・匈奴を漢の人々は夷狄(いてき)と呼び野蛮で未開とみなしていました。しかし、その勇猛さは大きな脅威でした。

 

武帝を時代をさかのぼること約60年、漢の創始者である劉邦は強大な匈奴の騎馬軍団を前に大敗をきっしました。以来、歴代の漢の皇帝は匈奴を兄、自らを弟とし、毎年貢物を贈り続けてきました。

 

この屈辱的な関係に終止符をうつのが武帝の悲願でした。武帝は強力な騎馬軍団を作るため、優秀な馬の繁殖に力を注ぎました。「史記」には「庶民の町に馬あり。あぜ道の間に群れをなす」と書かれています。軍備を充実させた武帝は、匈奴に何度も大規模な戦争を仕掛け、ついに勝利。そして、匈奴を北方へと追いやることに成功したのです。

 

漢王朝の拡大を目指し続ける武帝は、匈奴ばかりでなく中央アジアまで勢力を伸ばそうとしました。戦争は武帝の死まで続けられ、国は疲弊していきました。

 

歴史を記録することに生涯を捧げた司馬遷ですが、彼がいつどのような最期をむかえたのかはよく分かっていません。しかし、死後400年近く経った頃、陝西省に祠が作られ司馬遷は人々の敬愛を集めるようになりました。

 

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司馬遷と武帝

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