本能寺の変 明智光秀と家族の運命|歴史秘話ヒストリア

織田信長に見いだされ低い身分から身を起こした明智光秀(あけちみつひで)が、何より大切にしたのが家族でした。後に細川ガラシャと呼ばれる愛娘・玉子、幼い跡取り十五郎ら家族に囲まれ幸せな日々を送っていました。

 

しかし、織田信長は天下取りを前に年老いた家臣を次々と追放。60歳を超える老齢の身だったと言われる明智光秀が起こしたのが本能寺の変でした。しかし、父・明智光秀の決断は娘たちの人生を激変させました。

 

明智光秀

 

明智光秀 本能寺への道 父としての苦悩

明智光秀は戦国時代の中頃、美濃国で産まれたと言われています。もともと、身分の低い武士で40代半ばまで食事にも不自由する暮らしを送っていたそうです。

 

そんな明智光秀を支えたのは、妻の煕子(ひろこ)でした。煕子は女の命である髪を売り夫を支えたと言われています。一方、明智光秀も煕子が病に倒れた時にはその治癒を願い神社に通ったと伝えられています。貧しいながらも互いを労り思いやる仲睦まじい夫婦でした。

 

そんな明智光秀の運が開けるきっかけとなったのが、織田信長との出会いでした。明智光秀は、天下統一に向けて京への上洛を目指す信長に見いだされ、仕えることになったのです。

 

織田信長織田信長

 

人生経験豊富な明智光秀は、信長に朝廷や寺社との交渉を任され実力を認められました。そして数年で大きく出世。良い主君に出会い生活が安定し始めた頃、明智光秀は煕子との間に次々と子供を授かりました。いずれも女の子で、やっと手に入れたささやかな幸せでした。

 

特に活発だった娘が玉子です。後に細川ガラシャと呼ばれ戦国屈指の美女となる少女でした。

 

明智光秀は信長に軍事的な才能も認められ各地の戦いで活躍を見せ始めました。そんなある日、信長の非情な一面を知ることに。

 

明智光秀は800年に渡って人々の信仰を集めてきた比叡山延暦寺の焼き討ちを命じられたのです。信長に敵対する大名を比叡山がかくまったことへの報復措置でした。このとき、信長は比叡山だけでなく麓の村まで焼き払うよう指示。明智光秀は必死に信長をいさめましたが、一切聞き入れてもらえませんでした。

 

明智光秀はやむなく比叡山と麓の村を襲撃。この時の死者は数千人にものぼり、そのほとんどは無抵抗の僧や村人たちでした。焼き討ちの後、明智光秀は比叡山の麓の坂本を治めることになりました。

 

その後、明智光秀は城持ち大名に出世。娘たちにも次々と良い縁談が舞い込むように。長女の結婚相手は荒木村重の嫡男、末娘は津田信澄のもとへ。そして玉子は信長の仲介で細川忠興に嫁ぎました。

 

細川忠興

 

明智光秀は信長への感謝の気持ちをこう書き残しています。

 

私はがれきのような取るに足らない者であったが信長様に莫大な軍勢を率いる身にまで取り立てて頂いた。粉骨砕身努力すれば信長様は必ずそれを認めてくださる。

 

これが書かれたのは本能寺の変の一年前。これほど信長を慕っていた明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのでしょうか?

 

近年の研究で、謀反のきっかけは天下統一を目前にした信長の急激な組織改編にあるのではないかと考えられています。本能寺の変の数年前から信長は大規模な家臣のリストラを開始。家臣から領地やポストを没収する一方で、自分の息子たちにそれを分け与えるようになっていました。

 

本能寺の変の2年前、信長は家老たち相次いで追放しています。その解任理由は「近頃は目立った働きもなく不甲斐ない」というもの。これは家臣たちに大きな恐れと不安を抱かせました。

 

この時期、各地で家臣の謀反が続発。中には明智光秀の長女の嫁ぎ先だった荒木村重もいました。しかし、いずれも信長の武力で鎮圧され攻め滅ぼされています。

 

本能寺の変の時、明智光秀は67歳でした。戦国武将としては相当な高齢です。老いからくる体調不良か思うような働きができないことも。本能寺の変の数年前には生死の境をさまようほどの大病を患っています。

 

しかし、跡継ぎの息子・十五郎はまだ元服前の少年で、自分が地位を追われたり死んだりした場合、実績のない十五郎を信長が取り立てる保障はありませんでした。息子と一族の未来に大きな不安を感じていた明智光秀に、思わぬ機会が訪れました。

 

天正10年6月、信長軍の主な武将は全国の有力大名と戦うため各地に散らばっていました。明智光秀は丹波で次の出陣の準備を終え出発しようとしていました。そんな折り、信長が京にやってきました。供はわずかで全くの無防備でした。この偶然を好機とみて明智光秀が起こしたのが本能寺の変です。

 

父上、なんということを!娘たちを襲う悲劇

信長を討った明智光秀が真っ先におさえたのが安土城でした。2日後には朝廷の使者を安土城に迎え、天皇の権威を背景に信長に代わって天下を治めることを示しました。さらに、織田家の有力武将が各地から戻ってくる前に近畿の重要拠点を次々と占領。若狭、大和、紀伊の武将を味方につけ近畿の制圧を確実にしていきました。

 

このとき、明智光秀が頼りにしていたのが娘たちの嫁ぎ先。丹後の細川家には玉子が、大坂の津田信澄には末娘が嫁いでいました。

 

しかし、本能寺の変後の混乱は明智光秀の想像を超えていきました。明智光秀の謀反に反発する動きが続発。信長の息子が明智光秀の娘婿・津田信澄を襲撃。津田信澄は亡くなりました。このとき、幼子を抱えた明智光秀の娘も行方不明になりました。津田信澄は、天下の謀反人の一族としてさらし首にされてしまいました。

 

豊臣秀吉

 

中国地方にいた羽柴秀吉は、毛利軍との講和に成功。秀吉は明智光秀打倒を目指して進軍を開始しました。さらに、各地の武将に「信長は生きている」と嘘の情報を流し、反光秀の勢力を束ねようとしました。この時、秀吉が呼びかけた先の一つが玉子のいる細川家でした。

 

信長に重用されていた細川家は秀吉に呼応。明智光秀への協力を拒絶しました。玉子は、突如離縁を告げられ幼い子供たちと引き離されることになってしまいました。そして、山深い里に幽閉されました。幸せな暮らしから突き落とされた玉子は父に向け手紙を出しています。

 

腹黒い父上のせいで私は夫の忠興様に捨てられ心細いありさまに成り果てました。

 

頼りにしていた細川家の離反は明智光秀にとって最大の誤算でした。

 

秀吉は姫路に到着し、明智光秀打倒の準備を進めていました。明智光秀は、大名たちからの協力を十分にとりつけられぬまま、秀吉軍との決戦にのぞまざるおえなくなったのです。明智光秀は嫡男・十五郎を坂本城に残し出陣しました。

 

明智光秀 最後の戦い 一族の未来をかけて

天正10年6月10日、明智光秀は1万6000の軍勢を率いて天王山の麓の町・山崎付近に到着。秀吉軍はまだ兵庫にいて明智光秀には十分な防衛体制をとる時間がありました。このとき、明智光秀が目をつけたのが恵解山古墳。ここに本陣を築きました。

 

一方、秀吉は信長の敵討ちのために力を貸して欲しいと行く先々の武将に猛アピール。「自分は明智光秀さえ倒せれば討ち死にしてもかまわない」という秀吉の捨て身の訴えは、多くの武将の心を動かしました。山崎へ向かう間に、秀吉軍には近畿の武将たちが続々と合流し数を増やしていきました。

 

そして6月13日、山崎の戦いが始まりました。明智光秀は的確な指揮で秀吉軍を撃退。しかし、秀吉軍は淀川沿いの湿地帯を進軍してきました。反逆者への怒りで一丸となった猛攻を、光秀軍は支えきれませんでした。

 

ついに、明智光秀は勝龍寺城に退却。その夜、明智光秀は城からの脱出をはかりました。明智光秀が向かおうとしたのは嫡男がいる坂本城でした。しかし、この夜明智光秀は落ち武者狩りに遭い亡くなりました。

 

明智光秀の死後、明智一族には悲惨な運命が待っていました。坂本城には明智一族が集結していましたが、秀吉軍の包囲を受け自害を余儀なくされました。十五郎をはじめ親族のほとんどはここで命を落としました。

 

しかし、生き残ったのが幽閉されていた玉子でした。謀反人の娘として生涯を終えるかに思われた玉子でしたが、夫の細川忠興が彼女を救いました。玉子を心から愛していた忠興は秀吉に赦免を嘆願し許されました。幽閉を解かれた後、玉子は忠興と復縁。6人の子供をもうけ子孫は今日まで続いています

 

「歴史秘話ヒストリア」
悲劇の父娘 反逆の果てに
~本能寺の変 明智光秀と家族の運命~

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