玉(ぎょく)の衣をまとった王~古代中国の栄枯盛衰~|地球ドラマチック

NHK・Eテレの「地球ドラマチック」で玉(ぎょく)の衣をまとった王~古代中国の栄枯盛衰~が放送されました。約2000年前、世界には2つの巨大な帝国が存在しました。西のローマ帝国と東の漢王朝です。中国の礎を築いた漢王朝は紀元220年に滅亡。宮殿は崩れ落ち宝物は略奪され、その華やかな歴史は長い間闇に閉ざされました。しかし、皇帝や王の壮大な墳墓が発掘されたことで埋もれていた歴史に光が当たるようになりました。

 

古代の皇帝の陵墓

西安はかつて長安と呼ばれ、中国の古の都として栄えた街です。現在は兵馬俑で有名です。初めて中国を統一した秦の始皇帝の陵墓で発見されました。しかし西安にある皇帝の陵墓はこれだけではありません。漢王朝6代目の皇帝・景帝(けいてい)の陵墓です。400年以上にわたって続いた漢王朝は中国という国の礎を揺るぎないものにした王朝です。

 

陵墓の中にミニチュア世界!

広大な陵墓の中央にある高さ30mの丘に景帝が埋葬されています。丘の周囲に掘られた穴、陪葬坑(ばいそうこう)を調べていると兵馬俑を発見しました。始皇帝の兵馬俑は等身大でしたが、景帝の兵馬俑は約3分の1のサイズです。しかし数は8000を超える大規模なものでした。兵士だけでなく様々な動物の俑も見つかりました。陪葬坑は木材で塞がれ、木材が腐ると兵馬俑は土の中に埋もれました。考古学者たちがこの場所で発見したのは軍隊だけでなく、皇帝をとりまく世界を忠実にうつしたレプリカでした。例えば犬は2種類に分けられていました。尾が立っているのは番犬で、尾が垂れているのは食用犬です。台所のツボから宦官までいます。宦官は後宮で独自の権力を握っていました。皇帝と夫人たちと子供、宦官の一軍が社会と切り離された後宮にいました。宦官以外の成人男性は後宮に入ることを許されなかったので、皇帝に何が願い事をする場合、仲介役である宦官に気に入られる必要がありました。

 

名君か暴君か

漢王朝は景帝が治めた紀元前2世紀半ばに黄金期を迎えたとされ、景帝は優れた皇帝として歴史に名を残しています。減税を行い残虐な刑罰を廃止するなど多くの人を喜ばせる政策を実施しました。しかし、そのような善政を支えていたのは父親から受け継いだ財産や優秀な大臣たちでした。彼自身は名君の名に反する行いもしています。景帝は親から受け継いだ富の多くを自分の巨大な陵墓の建設に費やしました。完成までに約16年の歳月と膨大な労働力が必要でした。皇帝としての品格に疑問を抱かせる記録も伝わっています。例え大臣たちの手柄であっても、それを認めようとせず全て自分の功績であるかのように振る舞ったとされています。皇帝になる前にはまたいとこにあたる人物とささいなことでケンカになり、相手を殴り殺しています。この事件は後に内乱の火種となりました。

 

陵墓に眠る俑の謎

景帝は自らの陵墓を漢の都・長安(現在の西安の郊外)に建設しました。長安とは「永遠の平和」という意味です。古代世界の最大の都市の一つとして栄えました。長安では商業は盛んではありませんでしたが、政治の中心地でした。陵墓は完璧な死後の世界を景帝に捧げるために作られました。このような人物俑には古来の暗いしきたりが潜んでいます。古代中国では君主が世を去ると宮廷の関係者たちも殉死を求められ、亡くなった君主と共に墓に埋葬されました。しかし、このしきたりは人々の不評を買いました。漢の時代になると殉死のしきたりはほとんどなくなり、代わりに人物俑を一緒に埋めるようになりました。

 

死後の世界のために

漢の人々はこの世とあの世が極めて似たものだと信じていたため、副葬品が必要とされました。宮廷の生活をこれほど忠実に再現したのは、あの世の存在を堅く信じる気持ちがあったからです。これらの人物俑は単なる人形ではなく、あの世で皇帝に仕える役人たちです。

 

よみがえる漢文化

当時、絹は最も貴重な産物の一つで中国だけで生産されていました。絹は西洋でも珍重されたためユーラシア大陸を横切る長い交易路がうまれました。長安を起点に砂漠を何千キロも進み、山脈を越え中国とヨーロッパとを繋ぐシルクロードです。中国の絹は遠く離れたギリシャやローマにも伝わり位の高い人々に愛用されました。中国では税として絹が用いられることもありました。また貴重な産物であるため生産方法を外国人に漏らした者は死刑になったとも言われています。漢王朝の墓では王を楽しませるための舞踊を描いた壁画や人物俑も見つかっています。漢王朝において舞踊は宮廷生活の様々な場で重要な役割を果たしていました。漢の文化や権力は景帝が君臨した紀元前2世紀に頂点に達しましたが、広大な漢はしばしば外敵に攻撃を受けていました。

 

地方王国 君主の墓

景帝は都の長安から最高権力をふるいましたが、遠く離れた地方の王国については、それぞれの王に統治を任せていました。現在の徐州に都をおいた楚(そ)もその一つです。楚の王は有力な君主でやがて景帝に対して反乱を起こしました。楚は漢王朝の初代皇帝・劉邦の生誕地です。そのため楚は漢の中でも特別な地位をしめ、歴代の王は豪華な墓に埋葬されてきました。紀元前154年、楚を始めとする7つの地方王国が景帝に対する反乱を起こしました。景帝はこの反乱を鎮圧し、楚の王に自害を命じました。王の亡骸は獅子山楚王陵と呼ばれる墓に葬られました。

 

皇帝と王だけに許された

墓泥棒は玉のひつぎには手をつけませんでした。玉は非常に珍しく貴重だったため、その取引は厳しく取り締まられていました。盗んでも売りさばくことが難しいと墓泥棒は玉には目もくれなかったのです。墓泥棒が手をつけなかった玉の中でも特に驚くべきものが玉をまとった亡骸です。4000枚を超える玉が使われ、1.5km以上の金の糸で縫い合わされていました。玉の衣は王の体型に合わせて丹念に作られていました。

 

永遠に生きる

漢王朝では君主が亡くなると亡骸に入念な身支度が施されました。玉は死者を不死の世界へ導くものともみなされていました。古代中国では玉が王の権威や聖なる力の象徴とされていました。玉には不滅の生命につながる効果もあると思われていました。不滅の生命につながるとされた玉の神秘的な力は人々を強く惹きつけました。景帝の息子・武帝もその一人です。武帝は召使たちに明け方の甘露を集めるように命じていました。その露を湯のみに注ぎ、細かく削った玉を混ぜて飲んでいたと言います。玉を飲むことでその純粋さや神秘的な力が肉体に吸収されるに違いないと信じていたのでしょう。栄華を誇った漢王朝もやがて衰退に向かいました。しかし、そのような状況でも玉に対する信仰は強く受け継がれていました。

 

漢王朝は幼い皇帝の擁立や反乱が続き、滅亡への道を歩みました。4世紀以上にわたって続いた漢王朝は紀元220年に滅亡しました。しかし、漢が残したものは墓の中の宝物だけでなありません。計り知れない宝を中国に残したのです。現在、中国人の多くが自らを漢民族だとみなしています。そして自らの言語を漢語、文字を漢字と呼んでいます。現代の中国人が自らのルーツを考える時に思い浮かべるものこそ漢王朝なのです。漢王朝の皇帝や王は、中国の文化的アイデンティティを確立することで玉では得られなかった不滅の生命を得たのかもしれません。

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