イースター島 モアイ像の謎に迫る|地球ドラマチック

モアイは、南米チリから西へ3700kmのイースター島にあります。誰が何のために作ったのでしょうか?

 

 

カギを握る盗まれた友

イースター島の巨大な石造モアイは、長い間多くの謎に包まれてきました。考古学者による調査が本格化したのは、この数十年のことです。考古学者たちは様々な証拠から島の歴史を明らかにしようとしています。

 

モアイは、かつてとして崇められていました。しかしその後、この信仰を打ち砕くような何かが起きました。一部は復元されていますが、巨大な石造のほとんどは島のいたる所で倒壊したままになっています。未完のまま放置されたものもあります。

 

しかし、一つだけ最後まで倒壊することなく大切にされたモアイがありました。このモアイが謎を解く鍵を握っていると考えられています。そのモアイは、イースター島から運び出され島にはありません。ロンドンの大英博物館にあります。

 

このモアイは「ホアハカナナイア(盗まれた友)」と言われています。ホアハカナナイアの背中には、一面に鳥の姿をかたどったような彫刻がほどこされています。イースター島の他のモアイには、同じような彫刻はみられません。

 

絶海の孤島 イースター島

最初にイースター島に住み着いた人々がいつ、どこからやってきたのか、確かな証拠は見つかっていません。イースター島は、その存在自体が18世紀になるまでほとんど知られていませんでした。

 

西洋人が初めて島にやってきたのは1722年のことでした。1722年のイースター(復活祭)の日に島に到着したオランダ人探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンは、その日にちなみ島を「イースター島」と名づけました。

 

彼らが望めばイースター島は地上の楽園ともなりうるだろう。槍も棍棒も持っていない。彼らは平和的な人々だった。

(ヤーコプ・ロッヘフェーンの日誌より)

 

その後、100年に渡って多くの探険家が島を訪れました。1774年には、イギリスの探検家ジェームズ・クックが上陸。巨大な石造の噂は、ヨーロッパ中に広まりました。

 

しかし、19世紀半ばにはイースター島は楽園ではなくなっていました。奴隷商人の標的となったからです。島の人々は船の到来を恐れるようになりました。1862年にペルーからやってきた奴隷商人たちは、島の人々を容赦なく何百人も拉致したのです。

 

立っていた唯一のモアイ

1868年には、イギリス海軍の船がやってきました。奴隷探しのためではありませんでした。

 

付近の調査に訪れた海軍の士官や乗組員たちは、イースター島の巨大な石造に興味を抱きました。行く先々には、多くの石造が倒れたまま放置されていましたが、無傷のまま今も崇められている石造があるという噂を耳にしました。それは、他のものとは異なり、石室の中に隠されていました。

 

士官たちが石室に入ると、そこには地中に半分埋もれた石造がありました。石造は赤と白で鮮やかに彩られ、人々に崇められていました。

 

しかし、イギリスの仕官たちは自分たちが目にしているものを全く理解していませんでした。

 

目撃された儀式

現在、大英博物館にあるホアハカナナイアは、イースター島の人々の信仰において特別な役割を果たしていたと考えられています。儀式の様子に触れた記録が一つだけ残っています。今から約300年前、イースター島を発見したヤーコプ・ロッヘフェーンが記したものです。

 

人々は石造の前で火をたき跪いて頭を垂れた。

 

ロッヘフェーンには、彼らが何を話しているかは分かりませんでしたが、神に祈りをささげているのだと考えました。後の探検家の中で、このような儀式に触れているものは誰もいません。

 

島の人々も、記録を一切書き残していません。さらに、伝承を途絶えさせる悲劇が島を襲いました。

 

奪われた歴史

19世紀半ば以降、イースター島は奴隷商人の狩場と化していました。奴隷商人は人々を拉致し、チリやペルーに連れ去りました。

 

1862年の大略奪では、イースター島の現在の王様の祖先も連れ去られました。真っ先に捕らえられたのが王とその息子、そして地域集団の長、祭司たちでした。知識階級が根こそぎ連れ去れたのです。彼らと共に、島のしきたりに関する多くの知識も失われました。

 

しかし、太平洋の他の島々には同じような宗教儀式が残されています。

 

生者と死者をつなぐもの

島にある1000体を超えるモアイ像の意味が明らかになりつつあります。

 

モアイ像は、3~4世代ごとに新しいものが作られました。生者は死者を忘れ、死者は生者を忘れるからです。そのため、島の人々は3~4世代ごとに身近な先祖を神格化したのです。

 

モアイは死者を崇め、死者からの助けをあおぐために必要とされました。イースター島の人たちは、島が全世界だと思っていました。モアイは、未知の外界から自分たちを守る防壁として島の内側を向き、海岸線にそって並べられました。モアイは、死者の世界である海と生者の世界である陸地の境界に立っていました。島の言葉で干潮を意味するタイパバグは、「死者のうしお」という意味です。

 

人々は、膨大な時間と労力をかけてモアイを作りました。地域社会にとって重要な存在だったからに違いありません。

 

モアイが作られた当時、イースター島の人々は石器しか持っていませんでした。モアイを一体作るのに2年はかかったと考えられています。

 

新発見 モアイの目

島の人々は、石造をモアイと呼びます。研究者たちが島の言葉を詳しく調べると、驚くべき発見がありました。「モアイ」は単に像を意味し、祭壇に立つ石造は「アリンガオラ(命ある顔)」と呼ばれていたのです。

 

様々な遺跡からサンゴなどが見つかっていましたが、それが何を意味するのか長い間分かっていませんでした。ところが、ほぼ完全な形で見つかったものから、それは目の形であることが分かりました。儀式のさいに目を石造にはめたのです。そうすることで、先祖の魂が宿り石造は生きる者となりました。

 

失われた色

崇拝されていた頃のモアイは、着色されていたことも分かっています。現在ロンドンにあるホアハカナナイアも、イースター島から運びだされた時には赤く彩られていたことが分かっています。

 

しかし、その色は今は消え去っています。

 

ホアハカナナイア 盗まれた友

ホアハカナナイアとは「盗まれた友」を意味します。島の人々にとってこの名前は、抗議するための唯一の手段でした。

 

ホアハカナナイアが持ち去られたことで、立った状態のモアイはイースター島に一つも無くなりました。

 

津波で倒された!?

なぜ全てのモアイが倒れていたのかは大きな謎です。モアイが倒れていた理由について、研究者の意見は割れています。

 

考古学者のエドムンド・エドワーズは、1960年に起きたチリ地震津波を根拠に巨大津波説をとなえ証拠を集めています。マグニチュード9.5を記録したチリ地震は観測された中で史上最大の地震です。津波は海岸沿いに立ち並ぶモアイを直撃しました。エドワーズは、津波による惨状を実際に見ています。

 

エドワーズは、歴史上の地震記録を調査し、16世紀後半にも同じような災害が起きていたことを発見しました。確かに地震と津波はモアイが倒れた一つの要因を考えられます。

 

しかし、海岸周辺のモアイの中には津波による傷がないのに倒れているものもあります。また、海から遠く離れた場所にあるモアイも倒れていました。

 

人口過密で社会が崩壊?

研究者たちは、島の歴史からモアイが倒れている原因を探ろうとしています。島の歴史に関しては2つの相容れない説があります。

 

一つ目は、島の人口が増えすぎたことで人々が自然を破壊し、自ら社会の崩壊を招いたという説です。この説をとなえる研究者たちは、イースター島に人が住み始めたのは約2000年前で、最初は50人~100人ほどだったと言います。

 

人口が過剰に増えたことで、自然が破壊されていったと考えています。やがて、食糧不足から平和だった島に戦いが勃発。この説によれば、人々は地域ごとに派閥を結成し、互いに敵対するようになりました。

 

研究者たちは、モアイが攻撃の対象となり倒されたと推測します。しかし、この説に異議がとなえられています。

 

原因は気候変動?

島を初めて訪れた西洋人ロッヘフェーンが見たのは、崩壊状態に陥っているような文明ではありませんでした。ロッヘフェーンが日誌に記したのは、争いのない社会でした。しかし、かつて肥沃だった島から樹木が消えたのは事実です。

 

二つ目の説をとなえる研究者たちは、島は気候変動によって荒廃したと指摘します。1456年からの大干ばつによって、島の樹木の多くが枯れました。さらに1575年には、地震による津波が島を襲いました。そして1722年、ロッヘフェーンはモアイ崇拝の儀式を目撃した最初で最後の西洋人となりました。

 

失われゆくモアイ信仰

島は苦境に陥っていました。人々がモアイの力は失われてしまったと考えたとしても不思議ではありません。故意に倒されたモアイもあれば、自然と崩れ落ちたモアイもあったかもしれません。いずれもその場に打ち捨てられました。

 

人口過密による社会崩壊説と、気候変動による衰退説は今なお激しい論争を繰り広げています。しかし、ある一点において考古学者たちの考えは一致しています。

 

長いモアイ崇拝の後に、人々が異なる信仰を求めるようになったという点です。

 

新たな信仰の誕生

人々は厳しさを増す日々の支えとなる信仰を求めました。16世紀以降、新たな信仰が根をおろし始めたことが分かっています。

 

19世紀に島の人々の証言が集められました。証言によると、島の人々は争うことなく年に1度集まり、島全体を統治する一人の生き神を選びました。生き神は「鳥人」と呼ばれ、一年間島を統治しました。それまで崇拝されてきたモアイは、もはや必要とされませんでした。

 

しかし、一体だけ中心的な役割を果たしたモアイがありました。イギリス海軍によって持ち出されたホアハカナナイアです。

 

鳥人信仰のシンボルに

ホアハカナナイアは、古い信仰から新しい信仰への橋渡しをしていたと考えられます。ホアハカナナイアの背中には複数の鳥人が描かれています。

 

これは特別なことです。他のモアイにも首や背中に彫刻が施されていますが、鳥人が描かれたものはありません。モアイ信仰と鳥人信仰を繋ぐ存在だという事です。研究者たちはホアハカナナイアの分析を進めています。

 

命がけの鳥人レース

イースター島の人たちは、生き神である鳥人を選ぶために年に一度過酷なレースを行いました。舞台となったのは島の南西部にある聖なる村オロンゴ。村からは、海鳥の繁殖地の小さな島が見えます。

 

レースは、海鳥の到来とともに始まりました。出場するのは各地域集団から選ばれた若者たち。誰が一番早く小島から海鳥の卵を持ち帰るかを競いました。勝利した若者が属する集団の長が、その後1年間鳥人となり島をおさめました。

 

明かされる背中の秘密

鳥人信仰において重要な役割を果たしていたのが、ホアハカナナイアです。村の断崖のすぐそばにホアハカナナイアが立っていた石室があります。ホアハカナナイアは、鳥人信仰の象徴が掘られた唯一のモアイです。

 

これまで、ホアハカナナイアの背中には2羽の鳥がほぼ左右対称に掘られていると解釈されてきました。しかし、最新の画像分析からそれが間違いであり、重要なシンボルが見逃されていたことが分かりました。

 

左右のくちばしに、微妙な違いがあったのです。丸いくちばしの鳥はメスかもしれません。つまり、つがいです。そして、2羽の間には巣立ったばかりのひな鳥がいます。鳥人信仰は新たな命新たな季節を象徴していたのです。

 

この解釈が正しければ、鳥人信仰は単に指導者を選ぶ以外に、豊かさや新たな始まりを象徴していたことになります。最初の卵が届けられた時、新たな年が幕をあけたのです。人々にとってそれは希望の印でした。

 

ホアハカナナイアの真実

ホアハカナナイアは今、年に600万人もが訪れる大英博物館に収蔵されています。イースター島にはホアハカナナイアの返還を求める人々がいます。

 

ホアハカナナイアはイギリスに奪われました。私は大英博物館に祖先を返してくれるよう手紙を書きました。ホアハカナナイアはイギリスではなくイースター島にあるべきです。

(イースター島の王ヴァレンティノ・リロロコ・トゥキ)

 

ホアハカナナイアは、文字を持たなかったイースター島の人々によって刻まれた歴史の証人であり、人々がどのように祖先をしのび未来に目を向けるようになったかを記した信仰の記録です。

 

そして、人々がどう逆境に立ち向かい新たな未来を切り開くため平和に暮らす術をどう勝ち得たのか、その全てを物語っているのです。

 

TREASURES DECODED EASTER ISLAND HEADS
(イギリス/カナダ 2014年)

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