尾形光琳 風神雷神図に挑む|歴史秘話ヒストリア

ドラ息子 絵師になる

尾形光琳(おがたこうりん)が生まれたのは万治元年(1658年)京の都では商人が巨万の富を築いていました。尾形光琳の実家は、雁金屋という皇室御用達の呉服商人。尾形光琳は京でも指折りの裕福な家の息子だったのです。

 

尾形光琳は30近くになっても独身で気ままな生活を送っていました。女性関係にはとてもだらしなく、何人も愛人がいました。一向に働こうとしない尾形光琳は父の頭痛の種でした。ところが、気楽だった人生が一変。30歳の時に父が他界したのです。

 

それでも尾形光琳の遊び癖はいっこうにおさまりませんでした。茶の湯や能楽など様々な趣味にお金を湯水のように使いました。方々に借金を作り、弟の権平にまでお金を借りる始末。

 

父の死後、雁金屋の商売は急速に傾き、尾形光琳は親から相続した家屋敷も手放してしまいました。みかねた弟は、絵師になることを勧めました。金を借りている手前、尾形光琳はしぶしぶ弟の助言に従うことになりました。

 

とはいえ、絵師になったからといって仕事が舞い込んでくるわけではありません。とりあえず手近にあった団扇に絵を描いて売ることに。

 

当時、団扇は庶民でも手の届く工芸品で草花を描いたものが一般的でした。尾形光琳は、団扇を金一色に塗ってきれいな花を描いた上に墨でさっと一筆。こうした発想には俵屋宗達の影響が大きいと考えられています。

 

華麗なデザインを施した尾形光琳の団扇は都で大人気に。やがて評判は貴族たちの耳にも届き、尾形光琳は名門・二条家に扇や団扇を献上しました。そして二条家から寺におさめる屏風の依頼をされました。ここで認められれば一流の絵師になれるチャンスです。そして完成したのが「燕子花図屏風」です。

 

燕子花図屏風

 

尾形光琳はかきつばたを写実的というよりは、まるで着物柄のように極めてシンプルに描いています。満開や五部咲き、つぼみなど様々な状態の花が描かれ、単調になりがちな絵に変化を与えています。

 

「燕子花図屏風」は二条家を大いに満足させ、尾形光琳は一躍新進気鋭の絵師としてその名を知られることになったのです。

 

風神雷神図の衝撃

中村内蔵助は、貨幣を鋳造する銀座をまかされた都きっての大商人です。そんな中村内蔵助は尾形光琳の絵に惚れ込み支援を約束。中村内蔵助は尾形光琳の絵を高額で買い取るだけでなく、公私にわたり尾形光琳の美的センスを頼りにました。

 

すっかり有頂天になった尾形光琳を心配した弟の権平は、兄の目を覚まさせようと「すごい絵がある」と言い出しました。その絵は俵屋宗達の風神雷神図屏風

 

風神雷神図屏風

 

尾形光琳は風神雷神図屏風を見に何度も通いました。そして尾形光琳は画業にのめりこんでいきましたが、どうしても俵屋宗達にせまるような絵が描けませんでした。

 

そんな中、転機が起こりました。中村内蔵助が京の都を離れるというのです。そして尾形光琳も一緒に江戸へ移ることにしました。江戸に行けば何か絵を描くヒントがあるかもしれないと考えたからです。

 

尾形光琳が江戸で出会ったのは、それまで京では見たことがなかった美術の数々。その代表格が雪舟の水墨画です。優雅な絵とは対照的に力強い線で精神性を感じさせる雪舟の水墨画を尾形光琳は何枚も模写しました。

 

そして5年に渡った江戸暮らしを終えて京都へ戻りました。江戸で得た様々な経験をもとに、俵屋宗達の絵に挑戦することになったのです。

 

そして傑作は生まれた

52歳で京都に戻った尾形光琳は、自宅を自ら設計して建てました。屋敷からは創作に没頭しようという尾形光琳の強い決意がうかがえます。

 

屋敷の完成からまもなく屏風の注文が舞い込みました。題材は「風神雷神図屏風」に決めていました。尾形光琳は「風神雷神図屏風」をそっくり写すことで俵屋宗達の描き方や発想を解明しようとしましたが打ちのめされる結果に。すっかり自信をなくした尾形光琳は遺言書を書きました。

 

思い悩む尾形光琳の心をさらに揺さぶる事件が起こりました。パトロンの中村内蔵助が貨幣改鋳のスキャンダルで幕府の処罰をうけ京を追放されたのです。最大の理解者だった中村内蔵助を失ったショックは大きいものでした。

 

紅白梅図屏風

 

紅白梅図屏風」は夜に咲く梅をイメージしたと言われています。鋭い枝の形など江戸で会得した水墨画の手法が発揮されています。しかし、紅白梅図の主役であるはずの梅は左右に追いやられ、真ん中には大きな黒い川が描かれています。全てを飲み込んでしまうような深く暗い夜の川は、紅白の梅とは対照的に人生の影の部分を思わせるような真っ黒な波の連続です。この川こそが絵の主役なのです。

 

「紅白梅図屏風」は江戸時代を代表する絵画として俵屋宗達の「風神雷神図屏風」に勝るとも劣らない尾形光琳の最高傑作です。この絵の完成から間もなく尾形光琳は59歳で世を去りました。

 

尾形光琳の心は「琳派」として受け継がれた

尾形光琳の死後、幕府は質素倹約を奨励し、裕福な商人は次々と取り潰されました。きらびやかな尾形光琳の作品はやがて埋もれていきました。

 

尾形光琳の死から約100年後の江戸時代後期、第三の風神雷神図が出現。絵師の名は酒井抱一(さかいほういつ)です。尾形光琳の風神雷神図をコピーした酒井抱一は、尾形光琳の熱烈なファンとして作品を吸収し世の中に紹介。埋もれていた尾形光琳が再評価されるきっかけとなりました。

 

俵屋宗達から尾形光琳、そして酒井抱一へ。時代を超えたオマージュによって受け継がれていった華やかで優美な画風は、やがて琳派(りんぱ)と呼ばれるようになりました。

 

はちゃめちゃな人生を送りながらも憧れの作品に向かって挑戦し続け、新たな美の世界を生み出した尾形光琳。その姿は今も多くの若者に夢と勇気を与え続けています。

 

「歴史秘話ヒストリア」
天才か?ドラ息子か?
~尾形光琳 風神雷神図に挑む~

この記事のコメント