伏見稲荷大社の不思議な世界|歴史秘話ヒストリア

伏見稲荷大社のシンボルは、朱色の鳥居がどこまでも続く千本鳥居です。

 

実は江戸時代、鳥居は境内の入り口にしかありませんでした。現在の姿に変わるきっかけを作ったのは、江戸の呉服店とお稲荷さんの不思議な出会いでした。

 

お稲荷さんをめぐる神秘の旅へ

普通、神社では狛犬が座っていますが伏見稲荷大社の場合はキツネです。きつねはお稲荷さんの使いという役目を担っています。

 

鳥居は、神聖な神様の領域に入る門の役割を果たします。朱色なのは魔よけの意味もあるのだそうです。鳥居は社殿の背後にそびえる稲荷山に続いています。

 

稲荷山は古くから神の山として崇められてきました。というのも、この山こそがお稲荷さんが最初に降り立ったと言われる場所だからです。

 

奈良時代、この地を治めていた豪族が餅を的にして矢をいると、餅は白い鳥に変わり山に飛んでいきました。鳥が降り立ったところを探すと豊かに実った稲穂が。これは豊作の神の力に違いないと考えた豪族はそこに神様を奉りました。それがお稲荷さんの始まりです。

 

ちなみに、稲荷という名前は「稲成り(イネナリ)」が変化してイナリの神と呼ばれるようになったからと言われています。お稲荷さんはもともと豊作の神様だったのです。

 

やがて、人々は稲荷山のあちこちに社を建立。それらを巡りながら山頂を目指す稲荷詣でが始まりました。そして、それぞれの社に置かれたのがキツネです。キツネは山から下りてきて田んぼを荒らすネズミなどを追い払ってくれる農作業にとってありがたい存在。それがいつしか豊作の神お稲荷さんの使いと考えられるようになったとも言われています。

 

豊作の神様だったお稲荷さんは、ある事件をきっかけに病気平癒の神様として知られるように。それは平安時代のこと。ある時、天皇が原因不明の病で体調を崩し寝込んでしまいました。原因を占ったところ、お稲荷さんの祟りであることが分かりました。

 

その頃、都では天皇の命令で寺に五重塔を建設中でした。その材木を稲荷山から勝手に切り出したことがお稲荷さんの怒りにふれたというのです。

 

お稲荷さんの怒りを鎮めるため、朝廷は謝罪の使者を送り病気平癒を祈願。すると、天皇の病はたちどころに全快しました。

 

さらにその後、都に疫病が流行し朝廷は再びお稲荷さんに祈願。すると疫病はたちまち治まりました。

 

お稲荷さんにお参りすれば病気平癒のご利益があると噂は都中に広まりました。貴族から庶民まで人々はこぞって稲荷山に登り山頂で祈願。稲荷詣でが大流行しました。

 

秀吉VS.キツネ 巨大楼門の秘密

戦国時代、お稲荷さんの信仰は少しずつ都から地方へ広まっていました。

 

秀吉が初めてお稲荷さんと出会ったのも地元・尾張。貧しい農家に生まれた幼い秀吉の行く末を母親の仲は心配していました。母がお願いしたのは息子の立身出世。人々にとってお稲荷さんは、何でも願いを聞いてくれる身近な神様でした。

 

母親の必死の祈りが届いたのか、秀吉は織田信長に取り立てられトントン拍子に出世。城持ちの武将にまで急成長しました。さらに、信長の死後もライバルを次々に倒し54歳の時に天下を統一。秀吉はお稲荷さんへの感謝の印として城の一角に稲荷神社を設けました。

 

しかし、天下人になった秀吉の態度には驕りが見られるように。部下の意見に耳を貸さなくなり古参の家臣たちを次々追放。一番の側近だった千利休まで切腹させるなど暴走は誰にも止められなくなりました。

 

秀吉の傲慢な態度は仏にも及びました。秀吉が国を守るための巨大な大仏を作っていた時、大きな地震がおき大仏が倒れてしまいました。すると秀吉は怒って大仏の眉間に矢を放ちました。やがて驕り高ぶった態度が神仏の怒りに触れたのか養女・豪姫がキツネに憑かれてしまいました。

 

しかし、秀吉は自分の態度を反省するどころか怒りの矛先を伏見稲荷大社に向けました。自分の命令をきかなければ社殿を破壊するとお稲荷さんを脅迫。そんななか母・仲が病に倒れ医者たちがいくら手を尽くしても回復の兆しはあらわれませんでした。

 

秀吉は自分の無力さを痛感し、最後に頼ったのがお稲荷さんでした。必死の祈りが届いたのか、仲の容態は回復。喜んだ秀吉が伏見稲荷大社に奉納したのが楼門です。

 

千本鳥居 誕生の秘密

江戸時代中期、江戸に三井越後屋という呉服店がありました。店のきりもりを任されていたのは三井高富。しかし、創業以来順調だった商売にかげりが見え始めていました。

 

原因は越後屋を妬む同業者の嫌がらせでした。ある時はならず者が押しかけ店を火をつけるぞと脅迫。またある時は店先に汚物をまかれました。

 

そんな時に目に付いたのが三囲稲荷。三井高富は店の使用人たちを連れて三囲稲荷を熱心に参拝するように。さらに境内にキツネ像などを奉納。

 

すると、お稲荷さんのご加護か嫌がらせがすっかり消え、お客さんも増え売り上げが急上昇。江戸の町人から越後屋千両と呼ばれ1日に千両(現在の6000万円)を売り上げる大商店となったのです。

 

これに目をみはったのが江戸の町人たち。お稲荷さんの商売繁盛のご利益に驚き、にわかにお稲荷さんブームが起こり、江戸ではあちこちに稲荷神社が建てられました。それらの見所を紹介したガイドブックも登場。お稲荷さんブームは全国に広がりました。

 

元禄時代、貨幣が大量に流通し各地で商売に携わる人が急増していました。人々はまさに商売繁盛の神様を求めていたのです。このお稲荷さんブームが伏見稲荷大社の姿を大きく変えました。それが千本鳥居の誕生です。

 

お稲荷さんが全国に広まると共に、いつしかお礼に鳥居を奉納する習慣が生まれ千本鳥居が作られたのです。その習慣は現在まで続き、今でも次々に新しい鳥居が建てられています。

 

柱の裏には北海道から沖縄まで、奉納した会社や個人の名前がずらり。千本鳥居はお稲荷さんのご利益に感謝した人々によって自然に作られた景観だったのです。

 

「歴史秘話ヒストリア」
聖なるキツネと神秘の鳥居
~伏見稲荷大社の不思議な世界~

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