今川義元の真実|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で師匠、オレは戦国大名になる!やられ役 今川義元の真実が放送されました。桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られていまうのが戦国武将の今川義元(いまがわよしもと)です。スーパースター織田信長を引き立てる戦国一のやられ役として描かれる今川義元ですが実際は織田信長も徳川家康も憧れる戦国大名のトップランナーでした。

 

戦国大名・今川義元誕生!

永正16年、義元は駿河国の大名・今川家の五男に生まれました。幼名は芳菊丸(ほうぎくまる)5歳になると寺に預けられてしまいました。五男とはいえ今川家の男子、武士のままでは家督争いの種になると僧侶として生きることを定められたのです。そんな今川義元のことを特別な思いで見ていたのが教育係の太原雪斎(たいげんせっさい)です。太原雪斎はもともと今川家の家臣で武家の出身。義元と同じく家を継げず僧侶となった身の上でした。幼い義元に自らの境遇を重ねたのか、太原雪斎は義元に自身の手で人生を切り開く術を見につけさせようと決意しました。

 

太原雪斎の教育は一風変わったものでした。僧侶にするならお経を教えるところが戦の仕方を学ぶ兵法など、武士としての教育を施したのです。さらに和歌などの手ほどきにも力を入れ義元を教養人として育てていきました。数年が経ったある日、太原雪斎は義元と2人きりで京都へ旅に出ました。そして太原雪斎は義元を公家や足利幕府の重臣といった身分の高い人々に引き合わせました。こうして義元は京都の社交界で人脈を広げていきました。今川家のいわば外交官としての生活を義元は4年近くに渡って続け、その活躍は今川家の家臣たちの間でも評判になっていきました。

 

天文5年、義元18歳の時、今川家の当主・氏輝が急死。しかし、その死には不審な点がありました。氏輝と同じ日に2番目の兄・彦五郎も亡くなったのです。長男と次男が相次いで亡くなり家督を継ぐ可能性のある兄弟は3人。その中で正室の子は義元だけ。義元は一躍次期当主候補に躍り出たのです。不自然すぎる2人の死には義元に今川家を継がせようとした太原雪斎が関わっているのではないかとの噂も囁かれました。

 

そして3番目の兄・玄広恵探が今川家の家督を奪うため義元を討とうと兵を集め始めました。否応なしに家督争いに巻き込まれた義元に太原雪斎は決断を迫りました。決意を決めた義元。実は太原雪斎は事前に根回しをして義元の家督相続を幕府に認めてもらっていました。義元は兄を迎え討つため兵を率いて出陣。幕府のお墨付きをえて勢いづいた義元の軍勢は敵を圧倒し兄を自害に追い込みました。義元は18歳で今川家の当主となったのです。

 

今川義元 目指せ!一流大名

新米大名・今川義元を悩ませたのは今川領を狙う隣国の大名たちでした。中でも甲斐国の武田家は義元の父の代から何度も駿河に攻め寄せ争いが絶えませんでした。義元と太原雪斎の最初の課題は武田家を抑えることでした。義元は武田家の娘を妻に迎えることで長年の争いに終止符をうちました。ところが武田家との婚姻が思わぬ事態を引き起こしました。今度は東の隣国・北条家が攻め込んできたのです。今川家と北条家はこれまで同盟を結んでいた間柄で、かつては共に武田家と戦ったこともありました。敵であるはずの武田家と婚姻を結ぶなど北条家にとっては裏切り行為だったのです。北条家との戦いで今川家は惨敗。領地の4分の1を奪われてしまいました。

 

義元は北条家に勝つため今川軍の組織改革に乗り出しました。当時、戦が起こると家臣たちは自分の領地の農民などに声をかけ兵を集めていました。しかし敵が強いと分かると農民たちは尻込みして思うように兵が集まりません。そこで義元が考え出したのが寄親、寄子という制度。各地の今川家の家臣を寄親、その下にいる農民たちを寄子と呼び、擬似的な親子関係を結ばせます。親は子に土地を与えたり税を免除したりするなど優遇措置をとります。そのかわり戦となれば子は親の命令に絶対従うように定め強固な指揮系統を確立したのです。戦いへの備えを固めた義元は8年後の天文14年、北条家との再戦に挑み、奪われた領地の奪還に成功しました。

 

義元は娘を武田家に嫁がせ息子には北条から嫁を迎え、武田家と北条家との間にも婚姻を成立させようと目論みました。3国それぞれが手を結べばことは丸く収まるからです。とはいえ武田と北条は長年の宿敵同士。簡単に同盟するとは思えませんでした。太原雪斎は義元の命を受けて両家の説得に向かいました。太原雪斎は武田家と北条家が手を結ぶメリットを説き、両家はしがらみを捨て婚姻を結ぶことを受け入れました。こうして今川・武田・北条の三国の間に同盟が成立。義元は長年にわたる隣国との争いを終結させることに成功したのです。見事な手腕で平和をもたらした義元は「海道一の弓取り」と称えられるまでになりました。

 

今川義元 運命の桶狭間

天文16年、義元のもとに西隣の松平家から使者が訪れました。三河国の大名・松平家が義元に援軍を頼んできたのです。松平家を攻めていたのは尾張国の織田信秀。義元は松平家を助けることで織田家の勢力拡大を止めようと試みました。ただ義元は援軍を送る代わりに跡継ぎの竹千代の身柄を要求しました。しかし約束の期日になっても竹千代はやってきませんでした。竹千代は織田家に連れていかれていたのです。織田信秀は松平方の武将を買収し竹千代を強奪したのです。

 

義元と太原雪斎は竹千代を取り戻すべく策を練りました。それは国境に近い織田家の安城城を攻め、織田信広をとらえ竹千代との交換をもちかけようというもの。太原雪斎は自ら軍勢を率いて信広のいる城に攻撃を仕掛けました。総攻撃が始まって2日で安城城は落城し、信広の生け捕りに成功。さすがの織田信秀も我が子を見捨てるわけにはいかず竹千代との人質交換を受け入れました。

 

2年後、織田家を倒す好機が訪れました。織田信秀が亡くなったのです。これまで強力なカリスマ性で織田家を引っ張ってきた信秀が死んだことで織田家は混乱状態に陥りました。義元と太原雪斎は織田家の代替わりに乗じて尾張を攻めることを決意。太原雪斎みずから先頭にたち尾張攻略の準備を進めました。しかし、そのさなか太原雪斎が病に倒れ亡くなりました。そして義元は嫡男である氏真に家督をゆずる決断を下しました。当主の座を離れ、今度は自分が太原雪斎に代わって織田家攻略の陣頭に立つことを決意したのです。

 

永禄3年5月12日、義元は駿河を出発し尾張に侵攻。義元が率いる兵は2万5000。対する織田家は400あまり。さらに義元は周到に尾張攻略の根回しも行っていました。各地に使者を送り織田家の家臣たちを寝返させる方策です。義元は織田方の城をいくつも取り込み、ほとんど抵抗を受けることなく尾張領内へ。そして大兵力をいかし織田方のとりでを次々に攻略。誰の目にも今川軍の勝利は揺るがぬように見えました。しかし5月19日、今川軍は大雨に見舞われ義元は無理をせず陣をしき兵を休ませました。その時、今川軍の本陣を探していた織田信長と鉢合わせしてしまったのです。雨のせいで気づくのに遅れた今川軍は満足に応戦できず義元の間近まで織田軍の接近を許してしまいました。義元は自ら刀をふるい織田の兵士を切り伏せましたが討死しました。

 

義元の人質だった竹千代は後に徳川家康となりました。家康は幕府を開いた後、義元の本拠地だった駿河に移り住みました。竹千代は臨済寺で学びました。ここで家康の教育係となったのが太原雪斎。家康は義元と同じく太原雪斎に学ぶことで後に天下をとる武将として成長したのです。家康は晩年、この地での思い出を「幼き日に過ごした駿府は自分にとってのふるさとだ。この地での日々は生涯忘れることはない」と語っています。

 

桶狭間で義元を倒した織田信長も生涯義元に敬意をはらい続けました。義元左文字は桶狭間で義元が持っていた刀です。義元亡き後、信長のものになったこの刀を信長は終生手元に置き続けたと伝えられています。若き日に自らの前に立ちはだかった今川義元への強い憧れを胸に織田信長は天下の覇者へと駆け上がっていったのです。義元左文字は天下人の刀として信長から秀吉、そして家康の手へと渡りました。

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