戦後70年 東京大空襲はなぜ行われたか|NHKアーカイブス

NHK総合テレビの「NHKアーカイブス」で戦後70年 東京大空襲はなぜ行われたかが放送されました。東京スカイツリーの開業以来、観光客で賑わう東京の下町ですが今から70年前ここは10万人もの命が一夜にして奪われた場所です。東京大空襲に代表される都市への無差別爆撃にはアメリカ軍の中でも否定的な意見がありました。しかし日本への無差別爆撃は実行に移されたのです。

 

2005NHKスペシャル
そして日本は焦土となった~都市爆撃の真実~

無防備な都市の住民が爆撃の恐怖にさらされた第二次世界大戦。世界で100万人を超える市民が空襲の犠牲となりました。今世紀に入ってなお空爆による市民の犠牲が後を絶ちません。都市爆撃の原点となった戦争を人々は改めて問い直そうとしています。一般市民を狙う爆撃は本当に許される行為だったのでしょうか。最悪の都市爆撃とされるのが日本の66都市を焼き払った大空襲です。アメリカ軍は倫理的な葛藤を抱えたまま事実上の無差別爆撃へと踏み切りました。

 

アメリカ・アラバマ州にあるマクスウェル空軍基地には1世紀におよぶ機密資料が保管されています。1945年3月10日の東京大空襲に始まり8月15日の終戦当日までの5ヶ月に40万人もの市民が犠牲となった日本焦土作戦。標的は都市の住民でした。資料の日本全国の都市を撮影した膨大な偵察写真にはいずれも真ん中に奇妙な黄色の円が描かれています。これは爆撃目標エリア。B29は半径1200mの円の中に焼夷弾を全て投下するよう命令されていました。ここに住む人々をめがけ5万発もの焼夷弾が降り注いだのです。

 

B29は北太平洋をサイパン、テニアン、グアムの3島から発進。日本までは約2400km。硫黄島で進路を変更した後、目標上空へと侵入。神戸の場合、攻撃目標は東海道線南北の人口密集地域でした。6月5日、530機のB29が神戸に襲い掛かりました。各目標エリアで発生した火の手が巨大火災となって市街地の56%を焼き尽くしました。横浜の場合、市街地は工業・商業・住宅地などを合わせた特徴を持っていました。横浜には517機のB29が4班に分かれて侵入。工業地や商業地などタイプの違う街がどのように燃えるかが関心の焦点でした。名古屋の場合、人口密集地域を狙った爆撃は5回に及び毎回2000トンあまりの焼夷弾が投下されました。大都市に続いて地方都市が破壊されました。静岡では137機による夜間爆撃が行われました。富山への攻撃は最も徹底的なものとなりました。市街地の破壊率は99%にも達したのです。攻撃対象としてリストアップされた都市は180に及んでいました。地方都市の一つ一つまで市民もろとも焼き尽くそうという日本焦土作戦。米軍資料はその詳細を克明に記録していました。

 

なぜ無防備な市民がこれほどまで殺されたのでしょうか。中山伊佐男さんは3月の東京と8月の富山、2度の空襲を体験し肉親を失いました。なぜ地方の市街地が空襲されたのか中山さんはその理由を探ろうとしました。1945年8月2日の未明、182機のB29が富山市街を襲い2時間で3000人近い市民が犠牲になりました。当時、中山さんは15歳。避難するさなか幼い妹と母親を見失い、翌朝2人の変わり果てた姿を目にしました。米軍資料の中から発見された富山の爆撃目標エリアは住宅密集地に設定され、中山さんの家もこの中に含まれていました。外側にあった軍事工場は狙われることなく市街地だけが徹底的に焼き払われたのです。

 

ドイツ東部の町ドレスデンでは3万人近い市民が連合軍の爆撃の犠牲となりました。ドレスデンの空襲はドイツの敗北が決定的になった後で実施されました。当時、街には避難民が流れ込み70万人があふれていたと言います。最初の空襲から3時間後、防空壕から出てきた人々に500機を超える第二派が襲いかかりました。時間差をつけた攻撃が被害を大きくしました。イギリス空軍にあてたチャーチル首相からの極秘指令書が見つかりました。「爆撃の狙いは市民を恐怖におとしいれ士気を挫くことにある」と書かれています。事実上の無差別爆撃ともとれる内容です。

 

市民を戦争に巻き込んではならないというルールは第二次大戦以前から存在しています。1922年、オランダ・ハーグの平和宮 正義の間に軍事大国だったイギリスやアメリカ、日本など6カ国の代表が集まり戦争の理念が話し合われました。この時に合意された空戦法規案では「攻撃は軍事目標だけに限り市民を爆撃してはならない」とうたわれています。1930年代後半、このルールをナチスドイツと日本が破りました。1937年、ドイツ軍は新型爆撃機の威力を試すためスペインのゲルニカを空襲。街は3時間で壊滅。死傷者の数は2000人に及びました。その3ヵ月後、日中戦争が勃発。日本軍は長距離爆撃機による中国都市への空襲を開始しました。爆弾は市街地へ落下し重慶では1万人を超える人が亡くなりました。日本もドイツも市民を狙ったものではないと弁明しましたが、アメリカをはじめ世界は無差別爆撃だと激しく非難しました。しかし第二次大戦末期にはアメリカが史上最悪の都市爆撃と言われる日本焦土作戦に踏み切ることになりました。

 

日本に対する焦土作戦はいつ、どのように計画されたのでしょうか。日本焦土作戦への出発点は1944年9月に開かれた戦略分析委員会でした。大規模な爆撃によって戦争を決着させようという前例のない試みでした。委員会には軍の幹部のほか、経済・科学・心理学など様々な専門家が集められていました。都市への絨毯爆撃は目標を限定することなく、その地域を丸ごと破壊するもので、事実上ハーグの空戦法規で禁じられた無差別攻撃でした。しかしアメリカ軍がヨーロッパ戦線で実現していたのは精密爆撃という手法で軍事目標だけを破壊するものでした。空軍は国際ルールを逸脱することになる絨毯爆撃には批判的でした。絨毯爆撃をめぐって議論は空軍全体に広がっていきました。アメリカで激しい議論が交わされていた頃、日本では空襲への準備が始まっていました。工場の近くでは熱心な消化訓練が繰り返されました。しかし数ヵ月後にはその想定の甘さを思い知ることになりました。

 

日本への爆撃方針をめぐって揺れるアメリカ軍でしたが、すでにヨーロッパではハーグの戦争ルールは崩れだしていました。ヨーロッパの爆撃戦の主役となったのはイギリス空軍。当初はイギリス、ドイツ両軍とも精密爆撃を試みていました。しかしドイツ側の誤爆をきっかけに絨毯爆撃の応酬が始まったのです。大々的な爆撃を仕掛けたのはドイツでした。イギリス側の死者は始めの1年で4万人を超えました。イギリスは爆撃隊を増強し反撃を開始。ヘルム、ヘッセン、ハンブルグなどの都市が次々と爆撃されました。犠牲者はハンブルグだけで3万5000人。ほとんどが一般市民でした。イギリスは市民ではなく軍事目標に対する爆撃だと説明してきました。しかし軍の方針を決定付けた内部資料が公表され新たな波紋を広げています。物理学者からチャーチル首相に送られた「チャーウェル文書」には「ドイツの58都市を絨毯爆撃し2000万人の家を奪えば市民の士気は挫かれ戦争は早期決着する」と書かれています。チャーチルは空軍内部の疑念を退け、この提言を受け入れたのです。

 

イギリスはアメリカにも絨毯爆撃への参加を要請。しかし精密爆撃を貫くアメリカはこれを拒否していました。しかし爆撃開始を目前にして戦略分析委員会ではこれまで邪道としてきた絨毯爆撃が現実味を帯びてきたのです。攻撃開始を翌月にひかえた10月10日、戦略分析委員会がまとめた対日爆撃の方針には優先目標は航空機産業および絨毯爆撃を想定した工業市街地と書かれています。

 

1944年11月24日、日本爆撃が開始されました。第一目標は東京の中島飛行機製作所でした。しかし攻撃は失敗。爆弾は工場と全く違う場所に落ちたのです。爆撃の障害となったのは日本上空のジェット気流でした。この直後、精密爆撃を見限るべきだという声が空軍で一気に強まりました。その背景にはB29の大量生産がありました。30億ドルもの開発費をかけたB29を空軍は2000機も発注していました。一刻も早くこの爆撃機で成果を上げなくてはならないという重圧がかかっていたのです。それに拍車をかけたのが兵器開発局が石油会社と共同開発した新型焼夷弾。日本の都市に使用すれば住民の60%を殺傷するという強力兵器でした。開発者はこの焼夷弾が6000トンもあれば日本の6大都市を壊滅させ戦争終結を早めることができると主張。B29と新型焼夷弾は絨毯爆撃支持者たちを勢いづかせました。そして日本の都市に爆撃目標エリアを選定する作業が始まりました。それは都市の密集地区を完全に焼き払う空前の焦土作戦でした。

 

1945年3月9日、300機を超えるB29が東京へ向けて発進されました。東京、名古屋、大阪、神戸と10日間で連続的に300機の大連隊が襲い掛かりました。10日間で1万トンの焼夷弾が降り注ぎました。6大都市さえ潰せば日本が降伏するとよんだアメリカ軍ですが、多大な犠牲にも関わらず日本は徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。そこで新たな攻撃目標がリストアップされました。それは目ぼしい軍事目標が存在しない地方都市です。6月17日、地方都市への爆撃が開始されました。都会から焼け出された人々に再びB29が襲い掛かったのです。一晩で4都市ずつが焼き払われていきました。そして8月6日と9日、B29が2つの都市に原子爆弾を投下。この6日後、戦争は終わりました。アメリカ軍のリストにあがった180都市のうち66都市が焦土となっていました。しかし戦後、都市への爆撃が無差別殺戮だったのかどうか問われることはありませんでした。