日野富子 足利将軍家の妻、母|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で悪女の涙が日本を救った!?~日野富子 足利将軍家の妻、母~が放送されました。

 

将軍家は女の修羅場!若き新妻の戦い

永享12年、日野富子(ひのとみこ)は京の都で生まれました。実家は朝廷に仕える公家・日野家。もともと中堅の家柄でしたが室町幕府の時代になって急速に格を上げていました。その原動力となったのが結婚。3代将軍・足利義満との縁談ときっかけに次々と娘を将軍の妻として送り込んだのです。将軍家と関係を深めることで日野家は力をつけていきました。ところが日野家と血縁のない足利義教が6代目将軍の座につくと風向きは変わりました。足利義教は力を増し続ける日野家の存在を将軍家への脅威と判断。敵視したのです。その結果、足利義教は富子の祖父を殺害。さらに日野家を取り潰そうとまでしました。しかし、その最中に足利義教が暗殺され間一髪、日野家は難を逃れました。

 

富子が16歳になると、待ち望んでいた将軍家との縁談が持ち上がりました。相手は8代将軍・足利義政。美男子で芸術の分野にも通じた教養派。富子にとっても日野家にとっても申し分のない話でした。話はとんとん拍子に進み2人は結婚。美男美女と世間でも大評判。富子は幸せいっぱいでした。ところが、いざ始まった結婚生活は富子が思ったようなものではありませんでした。夫の義政は乳母だった今参局にべったり。昼から酒を飲み仕事にも身が入らない始末でした。それを良いことに今参局はやりたい放題。幕府の重要な人事にまで口出ししていました。富子はただ耐えるしかありませんでした。

 

富子に救いの手を差し伸べたのが義政の生みの母・重子でした。だらしない息子の行いを正し、正室である富子の立場を守ろうとしました。実は重子も富子と同じ日野家の出で、富子の大叔母にあたります。そんな関係にあって富子に特別な優しさをみせたようです。しかし、これにより将軍家の女たちを二分する争いが勃発。富子・重子と今参局という2つの派閥に分かれイジメや嫌がらせの応酬が始まりました。富子は重子に守られながら将軍家でのサバイバル術を身に付けていったのです。

 

20歳になった富子は義政の子供を身ごもりました。しかし子供は生まれて間もなく亡くなってしまいました。今参局が自分の地位を守るために子を呪い殺したという話が囁かれ始めました。これは人から人へと伝わり都中に広まっていきました。やがて幕府も放置することが出来なくなり今参局は捕らえられて流罪が決定。先行きを悲観した今参局は自ら命をたってしまいました。この後、今参局に見方した側室たちは都を追放されました。この一連の事件は重子が計画したとの記録が残っていますが、騒動から間もなく重子は急死しました。

 

我が子を将軍に!の執念 悪女伝説の誕生

長禄3年、日本全土は天変地異に襲われました。地震に大雨、台風、日照りなど様々な異変が3年もの間続いたのです。これにより大飢饉が発生。餓死した者は京の都だけで8万人以上。人口は3分の1にまで激減したと言われています。国家の緊急事態に義政は人々を救うどころか趣味にしていた豪華な屋敷の建設に没頭していました。もともと幕府の運営にさほど興味のなかった義政でしたが、未曾有の災害が起きたことで将軍職が面倒になり現実逃避をしていたのです。やがて義政は弟・義視を呼び出し「将軍職をゆずる」と言い出したのです。煩わしい将軍の職を弟に押し付けようとしたのです。義視に将軍の座が譲られると、富子の子が将軍になるのはほぼ不可能に。日野家の将来を守るためにも富子は自らの子を次の将軍にしなければなりませんでした。富子は寛政6年に義尚を出産。これには義政も大喜び。時期将軍の座をめぐる話はふりだしに戻りました。

 

当時の幕府は大名・畠山家の家督争いが原因で2つの勢力に分裂していました。そこに義尚と義視という2人の将軍候補が現れると、双方の勢力はそれぞれを支持。対立に一層拍車がかかりました。そして文正2年、応仁の乱が勃発。もちろん富子は義尚を支持するものの、戦いにおいては義政と共に蚊帳の外に置かれてしまいました。将軍家の代理戦争に形を借りた武将たちの争いは全国に飛び火。総勢27万もの兵が激突しました。戦場となった京の都は瞬く間に火の海に。戦いが始まってから6年の文明5年、義政は将軍の座を息子・義尚に譲ることを決めました。富子は頼りない夫に代わり幼い我が子を支える決意をしました。そのために用意した秘策がお金。軍事力でごり押しするのではなく経済を武器とする全く新しい発想でした。その第一段階としてまず始めたのが資金集め。富子は京の都に通じる街道に関所を設置し通行税を徴収し始めました。また米を買い占めて高値で転売する計画も。さらに高利貸しまで。富子の見事な経済手腕で幕府の資産は急増。現在の価値で70億円にも上ったと言われています。富子は京の都で戦う武将に1億5000万円にも相当する多額の金を貸していました。これにより武将たちは領地へと撤退していきました。体裁上、貸したことにはなっていますが実際はあげたも同然。富子は財力にものを言わせ戦争を終わらせようとしたのです。しかし庶民の目に映る富子は自分たちから金を搾り取り、ため込む強欲・守銭奴。人々の恨み言はやがて富子の耳にも届くように。世のためと力を注ぎながらも蔑まれた富子ですが、それでも戦いを終わらせる努力を続けました。そして文明9年、ついに応仁の乱は終結。戦いが始まってから11年もの歳月が流れていました。ようやく訪れた平和は富子の知られざる努力と苦しみの末にもたらされたものでした。

 

一家離散の危機!ゴッドマザーの涙

応仁の乱の後、人心は荒廃し幕府の力は大きく弱まっていました。将軍・義尚にとって幕府の建て直しは急務。それはすなわち彼を支える富子の課題でした。そこで富子が最優先としたのが朝廷対策。朝廷の後ろ盾を得ることで幕府の権威を回復させ支配力を増すことが目的でした。さらに富子は庶民の暮らしにも目を向けています。その一つとして行ったのが神社・仏閣の再興。富子は潤沢な資産を投じて人々の心のよりどころを作ることで社会の安定を目指したのです。さらに動乱で途絶えていた祭りも復活させています。これらの取り組みを功を奏し、京の都も人々の生活も次第にかつての姿を取り戻し始めました。そして富子は息子・義尚の教育にも力を入れました。

 

ところが父と息子が側室を取り合いケンカ。この親子喧嘩のせいで父と息子は絶縁状態に。その後も義尚は女性関係でトラブルを連発。さらに酒に溺れ、夜になると大宴会。やがて将軍の職務さえまともに出来ないように。富子の家族はバラバラになってしまいました。

 

文明19年4月、義尚が病に倒れました。息子の命の危機にさすがの父・義政も無事を祈り始めました。皮肉にも義尚の大病が家族を結びつける結果となりました。それから1ヶ月後、義尚は奇跡的に回復。そして将軍の職務に真面目に取り組み始めました。さらに不摂生をたち武芸にも励みました。死に直面したことで意識を大きく変えたのです。

 

莫大な資産を使って都の復興に努めた富子ですが、夫・義政は別の形で再生に尽くしました。趣味の屋敷造りの集大成・銀閣寺建設のほか茶の湯や連歌など、わびさびの文化を花開かせたのです。

 

将軍とした独り立ちした義尚でしたが、再び病に倒れ亡くなりました。享年25でした。さらに翌年には夫・義政が病死。ようやく手にしたはずの富子の平穏な家庭は儚くも失われてしまいました。富子は2人の菩提を弔うために出家。しかし政治の舞台からは身を引きませんでした。義尚の後継者擁立に奔走したのです。しかし引退したはずの富子が幕府が口出しすることに次第に非難が集中。軟禁生活に追い込まれてしまいました。そして明応5年5月、流行り病のために富子は亡くなりました。