藤井将雄|ザ!世界仰天ニュース

日本テレビの「ザ!世界仰天ニュース」で藤井将雄さんについて放送されました。藤井将雄(ふじいまさお)さんは福岡ダイエーホークスに所属していました。気迫溢れる強気のピッチングで1年目から活躍。1999年、ホークス悲願の初優勝に貢献した中継ぎのエースでした。そんな藤井将雄さんの体に異変が起きたのはリーグ優勝を決めた直後、日本シリーズの10日前でした。医師からはすぐに入院するように言われましたが、藤井将雄さんは医師を説得し試合に。日本シリーズでは第2戦と第5戦で登板。そしてダイエーホークスはチーム創設以来初の日本一に。

 

精密検査の2日後、本人に病気を伝える前に家族が呼ばれました。藤井将雄さんの病は肺がん。肺の抹消にある肺胞から広がっていく悪性度が高いがんでした。このタイプのがんは抗がん剤に対し抵抗性があり効果は期待できませんでした。また広範囲に転移していたため切除も困難。これ以上正常な細胞を傷つけてしまうのは命を縮めるだけなため放射線治療も出来ませんでした。医師から告げられた余命は早くて3ヶ月。母と妹は相談し藤井将雄さんには告知しないことにしました。医師が本人に伝えた病名は間質性肺炎。肺胞と肺胞の間の間質が炎症を起こす病です。息苦しさや空咳が出て、肺がんと症状が似ています。治療は難しいですが希望がない病気ではありません。

 

病気のことを球団に黙っているわけにはいきませんでしたが、病気が分かれば来年の契約はありません。そうなれば藤井将雄さんは希望を失うと思い、何とか公にせず王監督に事情を説明したいと母は考えていました。そこで後援会事務局長の北方さんに協力をお願いしました。北方さんは藤井将雄さんと最も仲が良かった若田部健一さん連絡。若田部さんの計らいで王監督に直接会う段取りが決まりました。そして母は「形だけでいいから契約更改をして欲しい」とお願いしました。そして嘘でも何でもない正式な契約更改がなされました。しかも年俸は倍増。実は家族との話し合いの際、王監督は「何も心配しなくていいですよ。契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」と言ったそうです。契約更改後、藤井将雄さんは王監督から「ゆっくり焦らず治療をしてください。若手がバテ始める6月に照準を合わせて戻ってきてくれればいいから」と言われたそうです。もう一度マウンドに立ちたいという思いが藤井将雄さんの心の支えとなりました。

 

藤井将雄さんは足腰を鍛えるため10階の病室まで階段で上り下りしていました。体は確実に病魔に蝕まれていたはずでしたが、人前では決して苦しい姿を見せなかったと言います。2000年1月、これといった治療をするわけではないので一時帰宅が認められました。そして2000年3月、2軍キャンプに復活。息苦しさ体力の低下など本人はかなり辛かったはずですが、それらを気力で乗り越え5月18日には半年ぶりの実践登板。この日に記録した球速は最高139km。22球の気迫の投球でした。その後も藤井将雄さんは2軍の試合に出場。6度の登板を果たしました。

 

2000年6月15日、登板直後に藤井将雄さんは倒れ緊急入院。肺に水がたまっていたのです。肺は胸腔という空洞の中にあります。肋骨や横隔膜が広がったり縮んだりすることで胸腔の圧力が変わり呼吸できるのですが、藤井将雄さんの場合は胸腔壁にがんが転移。膿んだ時に出る浸潤液が胸腔にたまり空洞部分が減り呼吸が困難になったのです。肺に溜まった水を抜くための管が取り付けられました。がんによる痛みもありましたが、痛み止めを拒み続けました。

 

2000年9月、ダイエーホークスは2連覇に向けて首位争いをしていました。藤井将雄さんは少しでもチームの力になれればとチームメイトを勇気付けるメールを送りました。そして10月7日、ダイエーホークスは見事2連覇。優勝から6日後の2000年10月13日、藤井将雄さんは亡くなりました。葬儀が行われた10月16日は藤井将雄さんの32歳の誕生日でした。