宮澤崇史 母と追いかける夢!ロードレース日本一への挑戦|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で宮澤崇史さんについて放送されました。長野県に生まれた宮澤崇史(みやざわたかし)さんは6歳の時に父が病気で他界。以来、母の純子さんが事務員として働きながら女手一つで宮澤崇史さんと2歳上の姉を育ててきました。生活は苦しく子供たちの服はいつも従兄弟のお下がりでしたが、宮澤崇史さんは母の苦労などお構いなしでした。そんな宮澤崇史さんが中学生になったある日のこと、ロードレースの最高峰ツール・ド・フランスの映像を見ました。自転車を買ってと母にねだる宮澤崇史さん。母は職場の同僚が買ったばかりのマウンテンバイクを貸して欲しいと頼みこみました。さらに母は崇史さんをマウンテンバイクの大会に参加させました。出場者は大人の経験者ばかり。自転車競技など一度もやったことのない崇史さんにかなうはずがありませんでした。ところが宮澤崇史さんは290人中27位に。レース初挑戦にも関わらず経験者たちを抑えて上位に食い込んだのです。その後、ようやく自分の自転車を買ってもらうと、とりつかれたように毎日ペダルをこぎ続け、各地で開催されるレースに出場するようになりました。しかし、自転車競技には多額の費用が必要でした。タイヤやチェーンなどの消耗品に年間6万円、年20試合は行われるレースの参加費が家計に重くのしかかりました。

 

宮澤崇史さんは自転車部のある高校に入学。17歳で世界選手権(ジュニア部門)で22位になるなど、華々しい活躍を見せました。そして20歳の時には世界選手権日本代表に選出され瞬く間に日本ロードレース界のトップ選手へと成長を遂げていきました。所属する実業団チームでも中心選手として活躍し、夢の日本一へもう少しで手が届くはずでした。

 

ところが母の純子さんが原発性硬化性胆管炎で倒れてしまいました。これは胆管に炎症が発生し肝硬変などを起こす難病。余命1~2年と宣告され、治療法は肝臓移植しかありませんでした。法律により生体肝移植のドナーは患者の配偶者や親族など親族者に限られています。切り取った肝臓は2~3年で元通りになりますが、全力でペダルをこぎ続ける自転車競技は足だけでなく全身の筋力が必要です。中でも足を押し出す腹筋の力が特に重要とされています。移植のために開腹手術をすれば腹筋を切断することになります。それはアスリートにとって致命的な問題でした。それでも宮澤崇史さんは躊躇うことなく自分の肝臓提供を申し出ました。

 

そして2001年9月11日に生体肝移植が行われました。宮澤崇史さんから肝臓の3分の1が切除され純子さんへ移植されました。拒絶反応もなく肝臓は順調に機能。しかし手術の成功は宮澤崇史さんにとってゴールではありませんでした。生体肝移植から復活し日本のロードレース界の頂点にのぼりつめるという、これまで誰も成し遂げたことのない夢への挑戦の始まりにすぎなかったのです。

 

手術からわずか1ヵ月後、宮澤崇史さんはリハビリを開始。しかし、その辛さは想像以上でした。歩くことも難しいほど筋力が失われていたからです。また腹筋の切断が影響を及ぼしたのは筋力だけではありませんでした。全身の運動能力までもが低下していたのです。それでも手術の2ヵ月後には1日100km以上の走行練習を開始。必死にペダルを回し続けました。しかし、レースに出てもここぞという所で力が出ず所属していたチームを解雇されてしまいました。

 

宮澤崇史さんは単身フランスに渡りアマチュアチームに所属。再びゼロから走り始めました。そして移植手術から9年後の2010年6月27日、日本ロードレース界の頂点を決める全日本自転車選手権大会に出場。実は手術から5年後、宮澤崇史さんはプロチームに復帰。2008年には北京オリンピックの代表にも選出され見事復活を遂げていたのです。そんな宮澤崇史さんでも唯一手にできないでいたのが日本の頂点を決める全日本選手権のタイトルでした。ゴール前で母・純子さんが見守る中、出場者157人によるレースはスタートしました。スタートから5時間、先頭集団に残った5人の中に宮澤崇史さんの姿がありました。勝負の行方は最後の直線までもつれこみました。全選手がラストスパートをかける中、抜け出したのは宮澤崇史さん。ついに宮澤崇史さんは日本ロードレース界の頂点に立ったのです。

 

その後ヨーロッパツアーでステージ優勝を果たすなど世界の舞台で活躍。2014年10月25日、ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムを最後に現役を引退。その時、花束を手渡したのは母の純子さんでした。現在、宮澤崇史さんはレモネード・ベルマーレの監督として後進の指導にあたる一方、自らの体験を伝える講演活動を行っています。