長宗我部元親 ~美しき武将 戦国アニキの秘密~|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で美しき武将 戦国アニキの秘密~長宗我部元親 信長・秀吉と戦う~が放送されました。戦国乱世の土佐に世にも美しいアニキ長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が登場しました。長宗我部元親は美しいだけでなく戦国屈指の戦上手で瞬く間に四国を席捲しました。

 

登場!美しく強いアニキ ~元親VS.信長~

長宗我部家は土佐国の小さな領主でした。土佐国は山がちで農産物の収穫が少なく、武士も農作業をしなければいけないほど貧しい国でした。困窮していた長宗我部家の跡取りとして生まれたのが元親。記録によれば若い頃の元親は色白で性格も柔和、姫のような美しい若君だったと言います。しかし、いざ戦に出てみると意外にも元親は大活躍。槍を自在に操り周囲が驚くほど目覚しい働きを見せました。22歳で家督を継いだ元親。長宗我部家は瞬く間に土佐を統一しました。元親は抱いている野心も桁外れでした。元親は土佐を統一すると四国各地へ進撃を開始。元親は阿波を征服し、四国の主だった大名を次々と従わせ天下取りへ名乗りを上げました。

 

元親は知力もずば抜けていました。元親は朝廷や室町幕府へ巧みに接近し25歳の時には幕府の重臣の娘を妻に迎えています。さらに中国地方の大名・毛利氏や宇喜多氏など広い範囲の大名たちと同盟関係を結ぶなど天下取りへ布石を打ちました。元親が期待をかけていたのが長男の信親(のぶちか)です。元親は京から一流の家庭教師を招き信親に英才教育を施しました。信親は身長180cmの逞しい青年に成長。父に似て色白で性格も柔和。美しく礼儀正しい若武者へと育ちました。美しさと強さを兼ね備えた親子は天下取りへと突き進んでいきました。

 

ところが、そこに立ちはだかったのが織田信長です。この頃、各地に勢力を伸ばしていた信長にとって四国で急成長する元親は無視できない存在でした。天正9年、信長は元親に領地を引き渡すよう申し入れてきました。通告を拒絶する長宗我部に対し出撃の備えを始める信長軍。ところが決戦間近の天正10年6月2日、本能寺の変が勃発。信長は家臣・明智光秀の謀反により命を落としました。

 

華麗なるおもてなし大作戦 ~元親VS.秀吉~

信長亡き後、後継者となったのが豊臣秀吉。秀吉は強大化する長宗我部家の攻略に挑んでいました。天正13年、秀吉は11万もの大軍勢で出陣。長宗我部家を一気に攻め滅ぼそうと3方向から四国に攻め寄せて来ました。四国各地に襲来した豊臣勢の攻撃により田畑や家が焼かれるなど民の間にも大きな被害が出ました。元親は10年以上かけて切り取ってきた阿波・伊予・讃岐を秀吉に差し出し土佐一国に退くことに。そして元親が行ったのが秀吉への進上、贈り物攻勢でした。選んだのはクジラ丸ごと一頭。土佐のクジラを船で運び700人に担がせて贈答品として大阪城の中に持ち込んだのです。さらに海の幸、山の幸満載の土佐料理100人前を秀吉に献上。元親は秀吉のお気に入りとなりました。それでも元親は秀吉の軍門に下りながらも事あらば再び天下を狙うという気概を持ち続けていました。天正14年、秀吉と九州の島津氏との間で戦が勃発。秀吉は大友氏を支援するため軍勢を送ることを決めました。元親、信親も秀吉勢として出陣することに。九州に到着した元親は信親を連れてキリスト教の教会へ。信親を新しい文化に触れさせるのが目的だったと考えられています。

 

12月12日、元親と信親は秀吉から派遣された指揮官のもと島津氏との戦いにのぞみました。この時、島津勢12万に対し豊臣勢は6000しかいませんでした。元親は援軍が来るのを待つべきだと指揮官に訴えました。しかし指揮官は援軍を待つことはありませんでした。凍てつく冬の川を渡り島津の大軍の中に突撃する元親と信親。しかし、待ち受けていた島津勢に囲まれ大苦戦。やがて親子は離れ離れになってしまいました。孤立した信親はそれでも死力を尽くし一人で24,5人の島津勢を討ち取ったと言われています。しかし多勢に無勢、ついに力尽き長宗我部信親は22歳で亡くなりました。最愛の息子の死をきっかけに長宗我部家はもろくも崩れていくことになりました。

 

父から子へ!受け継いだ不屈の魂 ~盛親VS.家康~

戦で長男を失った元親はかつて家臣思いだった優しさは影をひそめ激しい性格に変貌したと言います。それがハッキリと形に表れたのが後継者問題。信親亡き後、普通ならば年の順で次男が跡継ぎになるはずでした。しかし元親が指名したのは四男の盛親(もりちか)でした。盛親は気が短く荒々しい性格だったと言われ家臣たちは猛反対したと言います。この問題で元親は代々家を支えてきた重臣2人を切腹に追い込みました。さらに盛親の地位を脅かすものとして兄弟を幽閉。元親がどうして盛親を跡継ぎとすることにこれほどこだわったのか明確な理由は伝わっていません。慶長4年、長宗我部元親は61歳で亡くなり、長宗我部家のかじ取りは盛親に委ねられることになりました。

 

その翌年に起きたのが関ヶ原の戦い。東西合わせて18万の兵が激しい争いを繰り広げました。盛親は6000の兵を率いて西軍側につきましたが、戦場で迷いを見せ戦闘に加わることができず西軍側の戦力にはなりませんでした。結局、戦いは東軍の勝利に終わり徳川家康が天下を手中に治めました。西軍についた長宗我部家は家康によって取り潰しに。盛親は土佐を追われることになりました。盛親はその後、京の都で徳川の監視下で暮らすことに。手習いの師匠として生計を立て衣食にも事欠くようになりました。こうした暮らしは荒々しかった盛親の性格を穏やかなものに変えていきました。14年に及ぶ京での暮らしで、森親は元家臣たちの身を案じることの出来る一回り大きな男になりました。

 

慶長19年、大坂の陣が勃発。実はこの戦いの前、盛親のもとに大坂方から誘いが来ていました。勝利の暁には土佐国を褒美として与えるというのです。盛親は夜明け前、密かに大阪城へ向かいました。この知らせをうけ、ちりぢりとなっていた元家臣たちが次々とはせ参じました。盛親の軍は徳川の部隊を壊滅させる奮戦を見せました。しかし盛親の健闘むなしく翌日大阪城は落城。豊臣家は滅び盛親は再び敗者となってしまいました。そして盛親は捕らえられ殺されました。