三島由紀夫 ~昭和の虚無を駆けぬける~|日本人は何をめざしてきたのか

NHK・Eテレの「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」で第7回 昭和の虚無を駆けぬける~三島由紀夫~が放送されました。大正14(1925)年、三島由紀夫(みしまゆきお)本名・平岡公威は東京に生まれました。祖父と父は官僚で、病気や怪我から守るという祖母の方針のもと家の中で育てられました。病弱で命の危険に陥ることもありました。昭和6年、皇族や華族の子弟が多く通っていた学習院に入学。初等科から高等科まで三島由紀夫は学習院で過ごしました。一緒に学んだ瀬川昌久さんによると、我々は皇室の藩屏であるとものすごく叩き込まれたそうです。満州事変から日中戦争へ戦争が拡大していく時代、体力を向上させる行事が度々行われました。体が弱い三島由紀夫は同級生からからかわれていたそうです。体育や教練はほとんど見学し、本を読むなどして過ごしていたようです。三島由紀夫は学習院の構内紙に詩や小説を投稿。感受性が鋭く早熟の文才は上級生たちからも一目置かれました。その才能に驚いた国語の教師から日本の古典の薫陶を受け文芸雑誌に迎えられました。恩師の清水文雄さんによって三島由紀夫というペンネームも決まりました。

 

昭和16年12月、三島由紀夫が16歳の時に太平洋戦争が始まりました。戦局が悪化すると昭和18年には学徒出陣が始まり空襲が激化。昭和19年、三島由紀夫のもとに徴兵検査通達書が届きました。検査を受けるため兵庫県加古川市を訪ねました。結果は第二乙種という最低ランクの合格でした。翌年、入兵のために再び訪れた時、三島由紀夫は熱を出し寒気とめまいに襲われていました。入隊検査で肺浸潤と誤診され、即日帰郷を命じられました。

 

日本の敗戦を三島由紀夫は一家が疎開していた東京の世田谷で知りました。学習院の同級生や文学仲間が命を落としましたが、三島由紀夫は生き残りました。日本はマッカーサーを最高司令官とするGHQの占領のもと民主化への道を歩み始めました。昭和天皇はいわゆる人間宣言を行い新憲法で国民統合の象徴とされました。アメリカの占領下で軍国主義や封建制度を助長する伝統文化は否定されました。歌舞伎やちゃんばら映画で仇討ちや反逆を描くことが禁止され、日本人の意識も変わりつつあることを三島由紀夫は実感しました。小説の取材で伝統の祭りを見物しようとした時のこと、台額をねりまわす祭りが戦後の混乱で突然中止になったのです。終戦直後、日本の古典に感化された三島由紀夫の原稿は出版社でマイナス120点と酷評されました。

 

昭和22年に東京大学を卒業した三島由紀夫は父のすすめで大蔵省に入省。しかし、昼から働き夜執筆するという二重の生活は長くは続きませんでした。退職した三島由紀夫は作家生命をかけて長編に取り組みました。「仮面の告白」は同性愛をテーマにした自伝的小説で大きな反響を呼びました。三島由紀夫は敗戦の虚無から一歩を踏み出したのです。新たな三島由紀夫の人生観を決定づけたのがアメリカやヨーロッパをまわる半年間の世界旅行でした。彼が心躍らせたのがギリシャ。日本とは異なる光に溢れる風景や造形の美を重んじる文化を体感し強い感銘を受けました。帰国した三島由紀夫は新しい作風の小説「潮騒」を発表。ギリシャの古典を題材に健康的な若い男女の恋愛を描きました。物語では貧しい漁師と有力者の娘が障害を乗り越え心を通わせます。「潮騒」はこれまで5度映画化されるなどベストセラーとなりました。当時、日本は経済復興の道をひた走っていました。昭和31年、三島由紀夫の代表作「金閣寺」が生まれました。「金閣寺」は昭和25年に起きた実際の放火事件を題材にしています。火を放ったのは寺に住み込む吃音症の修行僧でした。なぜ金閣を燃やしたのか、三島由紀夫は修行僧の生い立ちや訴訟記録を丹念に取材。そして三島由紀夫はコンプレックスにさいなまれる人間が絶対の美を燃やして生きようとする姿を描きました。「金閣寺」で大きな成功をおさめた三島由紀夫は活動の幅を広げていきました。黒蜥蜴や鹿鳴館など戯曲の執筆にとりかかりました。そして三島由紀夫は長年のコンプレックスの克服に取り組みました。玉利齊さんの指導のもとボディビルを始めたのです。ボクシングや剣道、空手にも取り組み文武両道の作家を目指しました。そして映画にも主演。三島由紀夫は小説家、戯曲家、俳優など様々な顔を持つ昭和のスターとなったのです。

 

私生活でも大きな転機を向かえました。昭和33年に結婚。時代の寵児となった三島由紀夫は1年余りをかけて戦後日本の姿を描き出そうとしました。昭和34年に書き下ろした「鏡子の家」では夫を追い出し娘と気ままに暮らす女主人の生活が描かれています。高度経済成長のただ中で享楽的な日々を生きる鏡子。家には俳優や商社マンなどが出入りしますが深い人間関係は生まれません。「鏡子の家」は三島由紀夫の自信作でしたが、文芸評論家たちに酷評されました。続く小説「宴のあと」では東京都知事選を男女の愛憎を軸に描きました。しかし、モデルとなった候補者から訴えられプライバシー裁判となりました。後に和解となるものの一審では三島側が破れました。挫折感に打ち勝とうと三島由紀夫の意識が向かったのは自らの肉体でした。そして昭和40年、三島由紀夫はライフワークとなる長編小説「豊饒の海」の連載を始めました。大正から昭和へ生まれ変わりを繰り返す若者をおった4作の物語です。「豊饒の海」の取材で三島由紀夫はタイやインドをめぐる旅に出ました。インドでは古くからの信仰そのままに生活する人々の姿に感銘を受けました。

 

昭和43年、世界第二位の経済大国となった日本。所得が増えモノが溢れて人々の生活や意識が大きく変化しました。一億総中流の社会が現れようとしていました。右肩上がりの成長を続ける日本に違和感を抱える三島由紀夫。そんな頃、日大や東大など全国の大学で紛争が広がっていました。大学教育の改革を求める全共闘の運動が激しくなっていたのです。三島由紀夫は共産主義がもたらす混乱に対抗するとして若者たちと自衛隊の体験入隊を行いました。昭和43年10月、三島由紀夫は楯の会を結成。共産主義勢力の運動を警察が抑えきれなくなった時、治安維持の一役を担おうとしたのです。憲法改正の議論にも取り組みました。同じ月、ベトナム戦争に反対する学生たちが新宿駅で警官隊と衝突。700人以上が逮捕されました。そして昭和44年1月、全共闘が占拠していた東大安田講堂に機動隊が突入。激しい攻防戦の末、封鎖が解除されました。その4ヵ月後、東大全共闘から三島由紀夫に対話をしたいという申し込みがありました。会場は約1000人の学生で埋まり、天皇、自然と人間など対話は2時間半にも及びました。

 

日米安全保障条約の期限切れを控えた昭和44年、佐藤栄作首相は条約の継続を協議するためアメリカへ向かいました。渡米を阻止しようとする若者たち2000人以上が逮捕されました。昭和45年6月、安保条約は自動延長されました。昭和45年11月25日、三島由紀夫は楯の会の会員5人と陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯所へ。東部方面総監に面会し拘束。総監室に立てこもり自衛隊員と日本刀で激しく攻防しました。三島由紀夫は自衛隊員を集めるように要求し、バルコニーに出て演説を始めました。12時10分、三島由紀夫は天皇陛下万歳を三唱し総監室に戻り割腹し、介錯を受け命を絶ちました。三島由紀夫は45歳の生涯を閉じたのです。