リスボン巨大地震の衝撃|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」であの日から世界は変わった~リスボン巨大地震の衝撃~が放送されました。現在、地震は地球の表面を覆う岩盤のズレが引き起こすものだということが分かっています。ところが260年前のヨーロッパでは地震は全く別の原因で起きると考えられていました。

 

麗しの都 リスボン

ヨーロッパの西の端にある港町がポルトガルの首都リスボンです。「七つの丘の町」と言われるほど起伏に富んだ町並みが広がります。今から500年前の大航海時代、リスボンはヨーロッパ随一の繁栄を誇った町でした。目の前に広がる海を通じて世界中から莫大な富がリスボンにもたらされました。リスボンには世界中から貴重な産物が集まりました。インドからは香辛料。特に胡椒は大変高価な物とされていました。そしてブラジルからは金やダイヤモンドなどがもたらされました。ポルトガルの黄金時代を象徴するのがジェロニモス修道院。大航海時代にもたらされた巨万の富によって建てられました。しかしジェロニモス修道院を除いて、当時のリスボンの繁栄を今に伝えるものはほとんど残されていません。巨大地震によって破壊されてしまったからです。

 

1755年11月1日、この日はキリスト教の祭日で町中の人が教会に集まり祈りを捧げていました。ところが午前9時40分に地震が発生。これまでヨーロッパの人が経験したことのない大きな揺れでした。当時の建物は地震など想定しておらず、大きな揺れにひとたまりもありませんでした。マグニチュードは8.5~9の間だったと考えられています。震源はリスボンから約300km離れた海底で、揺れは西ヨーロッパ中に広がりました。この地震によって発生したのが巨大津波。大西洋を横断しカリブ海にまで到達。各地で大きな被害をもたらしました。地震によって大混乱に陥ったリスボンの住民たちは安全な場所を求めて逃げ惑いました。人々が向かった先は河川敷。そこで人々は一斉に引いていく川の水を目撃。その直後、大津波が町を襲いました。人々の苦難はこれだけで終わりませんでした。地震の直後、教会の蝋燭や暖炉から燃え移った火が瞬く間に広がりリスボンの町は火の海と化したのです。炎は6日間、市街をなめ尽くしリスボンの中心部は灰じんに帰しました。火災が短時間で広がったのは街の構造のせいでした。リスボンでは人口増加に伴って無計画に建築が進められ、狭い路地しかない建物の密集した町となっていました。こうした街の構造が被害を拡大させてしまったのです。リスボン地震によって市街地の3分の2以上が失われ4万人が命を落としました。

 

リスボン地震はなぜ起きたのか

リスボン地震が起きた11月1日は諸聖人の日、カトリックの聖人を称える祭日でした。今もこの日には多くの人が教会に出向きミサに参加します。みなか神の恩恵に感謝を捧げ、神の祝福を受けるはずの日。その祈りの最中に起きた大地震を当時の人々はどう受け止めたのでしょうか?「地震の真なる理由について」には「地震は偶発的な事象でも自然の現象でもない。神の大いなる罰」と書かれています。18世紀のリスボンではイエズス会など宗教勢力が強い力を持っていました。彼らは地震を神による罰だとする神罰論を唱え、神に許しを請うため何よりもまず一心不乱に祈りを捧げるよう呼びかけました。そのため復旧の機運が高まりませんでした。そんな中、立ち上がったのがポンバル侯爵(セバスティアン・ジョゼ)です。ポンバルはかつてイギリスに外交官として赴任した経験がありました。当時のイギリスは議会制度が整いヨーロッパ屈指の先進国でした。ここで合理的な考え方を身につけたポンバルは帰国後、国政にあずかる大臣に任命されました。地震の当日、リスボン市内にいたポンバルは自らも被災し命を落としかけました。ポンバルは「神にすがるだけでは助けは得られない。誰かが立ちあがらなければ」と思いましたが、国王や他の大臣の多くはショックのあまり茫然自失の状態でした。そうした中ポンバルは一人行動を起こしました。震災の直後リスボンでは食料の供給が途絶え多くの人が飢えに苦しんでいました。ポンバルは国中に通達を出しリスボンに食料を送るよう命じました。さらに物の値段をつり上げる買い占めを防ぐため価格統制令を出しました。またリスボンでは犠牲者の遺体が野ざらしにされ伝染病が広がる恐れがありました。しかし死者の数が多すぎて埋葬が追いつかない状態でした。そこでポンバルは遺体を海に流すという苦渋の決断をしました。病の感染源を街から遠ざけたことで病気にかかる人数を減らすことができました。さらに盗みを働く者が続出していました。そこでポンバルは街の目立つ場所に処刑台を作り罪人を罰しました。処罰を恐れた人たちは盗みを働かなくなり治安は守られました。何とか急場をしのいだポンバルですが物資の不足という問題を抱えていました。地震でポルトガルの生産はストップ。食料も医薬品もすぐに底をついてしまいました。中でも深刻だったのが建築資材。数万の住人が家を失っているのに仮の住まいを建てることも出来ませんでした。しかし突如国外から支援物資が届いたのです。一大貿易都市だったリスボンにはイギリスやフランスなどヨーロッパ中から商人や外交官などが集まっていました。彼らが一斉に祖国に手紙を送り街の惨状を伝えたのです。こうした手紙に記された地震のニュースは各国の新聞や雑誌に大きく取り上げられ、イギリスは即座に支援を決定。スペインからは金貨、ドイツからは布や木材などが次々と送られてきました。この支援物資を活用しポンバルは被災者に住まいを用意。9000ものテントや仮設住宅ができあがりました。

 

そしてリスボンは生まれ変わった

地震の翌月、ポンバルはリスボンの再建に乗り出しました。都市再建には初めて耐震の概念が持ち込まれました。科学の力で地震に備える試みがここから始まったのです。ポルトガルだけでなく世界中から技術者や資材を集め新しいリスボンの街作りは進められました。こうしてリスボンは生まれ変わりました。

 

地震はなぜ起きるのかポンバルはその答えを探し求めました。地震の翌年、ポンバルはポルトガル中の教会に地震に関する質問状を送りました。揺れはどれほど続いたのか、地面に亀裂は入らなかったか、潮位の変化など質問項目は13にのぼりました。これは世界で初めて国家全体に行われた地震に関する調査です。そしてリスボン地震はヨーロッパの思想にも大きな影響を与えました。被災したリスボンの様子を知ったフランスの思想家ヴォルテールは地震は神の罰だという主張を否定。ドイツの哲学者カントは地震は自然が起こしたもので原因は科学で解明できると唱えました。こうした動きはやがて科学の力で地震の予知や防災に取り組む現代の地震学へと繋がっていきました。