ダヴィッド「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」|美の巨人たち

テレビ東京の「美の巨人たち」でジャック=ルイ・ダヴィッドの「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」について放送されました。「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」通称「アルプスを越えるナポレオン」は最も有名なナポレオンの肖像画です。画家ジャック=ルイ・ダヴィッドは新古典主義のリーダーとしてフランス絵画の一時代を築いた人物です。この作品で皇帝画家となるきっかけをつかみました。

 

「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」はダヴィッド53歳の作品です。ダヴィッドが絵を志したのは18歳の時。王立アカデミーの教授だった叔父に弟子入りしました。当時、王立アカデミーに認められることは画家として自立の第一歩でした。ダヴィッドもアカデミーの一員となるべく若手芸術家の登竜門ローマ賞に挑戦し、26歳の時「アンティオコスとストラトニケ」でローマ賞を獲得しました。その奨学金でイタリアに留学し、古代遺跡やルネサンス絵画の美に触れました。イタリアで学んだ成果は「ホラティウス兄弟の誓い」に活かされています。直線的で単純な構図ながら光と影のコントラストによって舞台のようなドラマ性を表現し、古代彫刻に学んだ力強い肉体が静寂さの中に強い精神性を描き出しています。この作品でダヴィッドは新古典主義の画家として脚光を浴びました。

 

帰国後は王の画家として活躍するはずだったダヴィッドですが、帰ってきたフランスは不穏な空気に包まれていました。18世紀末のフランスは啓蒙思想の自由平等の教えが広がり絶対王政の危機が訪れていたのです。そして1789年、王政への反発と自由を求めた民衆がバスティーユ監獄を襲撃。フランス革命が幕を開けました。その直後に発表されたダヴィッドの作品が「ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち」です。ブルートゥスはローマ最後の王を追放し共和国を樹立した人物ですが、そのために王政派だった息子たちを処刑しました。大義を貫くために我が子を犠牲にした父親です。フランス国民たちはこの作品に現実を重ねダヴィッドを「革命の画家」と呼びました。しかし1794年、46歳の時に親友だった革命派のリーダーであるロベス・ピエールの失脚と共に逮捕され幽閉されました。ダヴィッドが最初にナポレオンに出会ったのは恩赦により釈放されて間もなくのこと。ダヴィッド49歳、ナオレオン28歳の頃でした。ナポレオンがダヴィッドのアトリエを訪れ、そして一枚の肖像画が描かれました。ダヴィッドは革命以来の激しい興奮をおぼえました。そして2年後、「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」を描きました。しかし、依頼したのはナポレオンではありません。同盟国として共にイタリアと戦ったナポレオンに敬意を評しスペイン王カルロス4世がダヴィッドが依頼したのです。しかしナポレオンはモデルになることを拒み衣装や帽子だけを貸したと言います。ダヴィッドはナポレオンに借りた衣装を弟子に着せポーズをとらせて描きました。全て想像で描いたため、史実とはかけ離れてしまったのです。まず馬ですが、当時アルプスを馬で越えるのは不可能で足腰の強いロバを使いました。また黄色いマントですが、これでは戦うには目立ちすぎます。戦いに出る時は地味な軍服だったのです。画家ポール・ドラロッシュが描いた「アルプスを越えるボナパルト」が真実です。小さなロバにまたがり過酷さに疲れ果てた英雄の姿が描かれています。ナポレオンの遠征は新聞や版画でフランスにも伝えられダヴィッドもその状況を知っていたはずです。しかし、自らも革命に身を投じた画家として真実を描くことよりフランスのために戦うナポレオンを英雄にふさわしい姿に表すことが重要だったのです。

 

完成した絵を見たナポレオンは感激し、そのコピーを作らせました。しかも1枚だけではありませんでした。全部で5枚描かれました。2枚目はサン・クルー城に置くため、3枚目はフランス国民の目に触れるようにアンバリット宮殿に、4枚目はミラノ制圧の記念にミラノの館に、5枚目はダヴィッドが自分のために描きました。構図は全く同じですが最初の1枚だけが黄色いマントで、それ以降は赤いマントになっています。これは色で人物の階級が表されているからです。黄色は古代から将軍の色で赤は王の色です。同じ絵を何枚も描かせた頃、ナポレオンはまだ将軍でした。なのになぜ赤のマントにしたのでしょうか。アルプス越えを果たした後も次々と敵を打ち倒したナポレオンはフランスの代表者として各国と条約を結び、次第に軍人から政治家へ転身していきました。その先には自らが王となりフランスを統治するという野望がありました。つまりナポレオンは赤をまとうことで自らが王になることを高らかに宣言していたのです。