伊藤博文と井上馨 ~友がいれば、越えていける!~|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」で友がいれば、越えていける!~伊藤博文と井上馨の大冒険~が放送されました。初代内閣総理大臣である伊藤博文と初代外務大臣である井上馨は幕末に出会い生涯の友となりました。しかし、生まれも性格もまるで正反対。身分が低いがしっかり者の伊藤博文と、エリートだけど変わり者な井上馨。そんな2人の友情を育んだのはトイレだったと言います。

 

名コンビ誕生!?伊藤博文と井上馨

天保12年(1841年)、伊藤俊輔(のちの博文)は山口県光市で生まれました。出身は農家で質素な家屋に一家3人肩を寄せ合って暮らしていました。生活は貧しく農作業のかたわら、母が糸を紡いで家計を支えたと言います。伊藤自身も幼い頃に奉公に出されるなど過酷な少年時代を送りました。そんな伊藤に転機が訪れたのは17歳の時。長州藩の思想家・吉田松陰が開いていた松下村塾に入ります。松下村塾は身分にとらわれず生徒たちが自由に議論を戦わせるという当時としては先進的な教育方針をとっていました。人なつっこく気が利く伊藤は先輩である高杉晋作などに可愛がられ、みなから一目置かれるように。ここで伊藤が出会ったのが攘夷という思想。ペリー率いる黒船が来航して以来、日本中で高まっていた外国を打ち払えという考えです。塾の仲間と過ごすうち、次第に伊藤も攘夷を志すように。入塾の2年後、伊藤は江戸へと向かいました。そこで伊藤は後の井上馨こと聞多(ぶんた)と出会いました。井上は伊藤より6歳年上で、みなをまとめるリーダー的な存在でした。井上家は長州藩の藩主・毛利家に戦国の頃から仕える由緒ある家柄。井上は藩主の小姓を勤めるエリート武士で「聞多」という名前も藩主直々に授けられたもの。しかしエリートにしては少し変わったところがありました。黒船が来航すると長州藩の若者たちは攘夷のためと必死に武芸に励みましたが、井上は「蘭学が学びたいので休暇が欲しい」と言い出します。普通、小姓ともなれば武士の誉ですが、その役目を休んでまで自分のやりたいことは即実行せずにはいられない、そんな性分だったようです。伊藤と井上は長州藩の仲間たちとどうすれば攘夷を実行できるのか毎晩のように議論しました。そして一つの計画を思いつきました。品川に建設中だったイギリスの公使館を焼き討ちしようとしたのです。井上は火付け役3人のうちの1人に選ばれました。決行当日、現場に到着した所で井上は爆弾を忘れるという大失態。仕方なく残る2人が用意した爆弾だけで計画を進めることに。建物に火が放たれイギリス公使館は焼け落ちました。しかし放火は重大な犯罪行為。一行は幕府から追われる身となってしまいました。井上はイギリスに行こうと言い出しました。仲間の戸惑いをよそに横浜にいるイギリス商人のもとに乗り込み、イギリスへの密航を仲介してくれるよう頼みました。ところが1人1000両(現在の金額で約5000万円)必要と言われてしまいました。伊藤に相談すると、伊藤も一緒にイギリスに行ってくれることに。渡航費の工面も引き受けてくれました。しかし身分の低い伊藤がそんな大金を持っているはずがありません。目をつけたのは藩の御用金。当時、武器を買い付ける役目だった伊藤は江戸に1万両の御用金があることを知っていました。そして文久3年(1863年)5月12日、伊藤と井上は3人の仲間とともに横浜からイギリスへと旅立ちました。

 

サムライ in ロンドン

イギリスへ向かう船に乗り継ぐため日本から上海に到着した一行はそこで衝撃的な光景を目にしました。アジアの玄関口として栄えた上海の港にはイギリスやフランスなど各国の船が所狭しと並んでいました。しかも軍艦だけでなく商船までもが大砲で武装する物々しさ。日本を離れてわずか5日で一行は西洋の力を見せつけられました。上海からは伊藤・井上と他の3人が2隻の船に分かれてイギリスに向かいました。上海でイギリス行きの目的を尋ねられた一行ですが英語など喋れず井上は辞書を見て「navigationを学びたい」と答えてしまいました。本来なら「navy(海軍)」を学びたいと言いたかったのですが、航海術を学ぶ水夫になりたいのだと勘違いされてしまいました。一人1000両もの大金を払えばイギリスまで優雅な船旅が出来たはずなのに帆をはるためロープを引っ張る重労働にこき使われたりデッキ掃除をさせられたり、食事もビスケットにわずかな干し肉だけという有様でした。過酷な日々を送るうち伊藤は体調を崩してしまいました。当時の船には水夫のためのトイレなどなく船べりに突き出た板から海に直接するしかありませんでした。海が荒れていれば落ちてしまうかもしれない命懸けのトイレ。お腹を壊し頻繁に用を足す伊藤が船から落ちないよう井上は毎回命綱を結び伊藤を支えました。厳しい航海の中で全てをさらけだした伊藤と井上の絆は深まっていきました。文久3年9月23日、船はロンドンに到着しました。そこで5人が出会ったのは想像を絶する異次元の文明世界でした。時は大英帝国の最盛期。首都ロンドンの大通りには無数の馬車が行き交い、高層建築が立ち並ぶ光景に一行は圧倒されました。中でも驚愕したのがロンドンの街を走る蒸気機関車の姿です。西洋文明の力を見せ付けられた一行は攘夷など到底不可能であることを悟りました。この文明を少しでも吸収して日本に持ち帰りたいと伊藤らは行動と開始。まずは基本となる英語の習得に励みました。さらに高度な学問を学ぶため大学にも通いました。イギリスに来てから半年後、「イギリスなど4カ国が日本の大名(長州藩)を攻撃すべく最終協議に入っている」と新聞に書かれていました。先に手を出したのは長州藩。下関にやってきた外国船を打ち払おうと突如砲撃。それに激怒した西洋諸国が報復しようとしたのです。そこで伊藤と井上は後を他の3人に託し、長州を救うために帰国することに決めました。

 

長州を救え!2人だけの戦い

再び長く厳しい航海を経て伊藤と井上は日本に戻りました。帰国するなり横浜にあったイギリス公使館に駆け込みました。イギリス公使オールコックに自分たちが藩を説得するので攻撃を待って欲しいと直談判。オールコックは2人の申し出を受け入れてくれました。しかし、長州では藩の上層部はもちろん庶民まで外国憎しの声一色。藩を説得できる見込みなどほとんどありませんでした。6月27日、藩主以下上層部が居並ぶ中、井上は外国と戦うことがいかに無謀か訴えました。しかし藩を説得することは出来ませんでした。そして8月5日、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国連合艦隊が下関を攻撃。17隻もの大艦隊の攻撃を前に長州藩の大砲はわずか1時間で壊滅。長州藩の完全な敗北でした。下関の砲台は外国軍に占領され西洋の力を思い知らされました。さらに外国と戦争を始めるなど勝手な行動を何度もとってきた長州藩を討つと幕府が決意。兵を進めてきました。