弘前大学教授夫人殺害事件|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で弘前大学教授夫人殺害事件について放送されました。1971年6月、新聞社の東北支社で記者をしていた井上安正(27歳)のもとに30歳の安田正(仮名)が訪ねてきました。安田が話しにきたのは22年前の事件。それは1949年8月6日に青森県弘前市にある高島邸(仮名)の離れに間借りしていた三浦家(仮名)で起きたものでした。三浦教授の妻・あき子(仮名)が殺されたのです。事件当夜、弘前大学に勤める夫は出張のため外出中で、あき子の母が群馬から訪れていました。娘と孫の3人で川の字に寝ていたところを襲われたのです。あき子は頚動脈を切られており、即死状態でした。住民たちの不安を一刻も早くおさめようと弘前市警による懸命な捜査が開始されました。事件から1週間後、23歳の男性が逮捕されたものの、その後アリバイが成立して釈放となりました。犯行現場周辺には点々と血痕も残っていましたが、結局有力な手がかりはつかめず新聞などのマスコミ各社も迷宮入りかと書きたてました。

 

事件現場の近所に住む無職の男・那須隆(25歳)はなぜか刑事たちの行く先々に現れ、捜査状況について聞きまわっていました。そして那須隆は事件の夜、向かいの家で将棋を指していたと言います。しかし、向かいの家に確認すると那須隆は来ていないことが発覚。警察は那須隆を事件の最重要人物としてマーク。彼の友人・知人などから身辺を徹底的に洗い出すことにしました。刑事は友人宅に置かれていた那須隆の靴に赤黒いシミが付着しているのを発見。鑑識の結果、それが人間の血痕である事が判明しました。こうして警察は那須隆の身柄を拘束。那須隆は自宅にいた、映画に行っていた、公園にいたなど供述を二転三転させ、それらのアリバイを証明するものは最後まで何も出てきませんでした。そして、その後行われた家宅捜索によって血のようなシミが付着したシャツが発見され、分析の結果シミからは那須隆のものではなく殺されたあき子さんと同じ血液成分が検出されました。それは科学的に証明された物的証拠でした。その後の裁判でも血痕鑑定が決め手となり那須隆には殺人罪で懲役15年の判決が下されました。当初、犯行を否認していた那須隆も有罪判決を受けた後、自ら犯行を認めました。

 

しかし逮捕から22年後、新聞社に現れた謎の男によって事件は再び大きく動き出すことに。実は事件があった頃、那須隆は警察官になりたかったため、捜査に積極的に関わっていました。那須隆は平安時代に源氏と平氏の戦いにおいて平氏の船の上に立てられた扇を射抜いたことで有名な那須与一の直系の子孫で36代目当主にあたる人物でした。地元の名門中学を卒業後、警察が持つ電話回線の管理を行う仕事に従事していましたが、敗戦で組織自体が解体となり職を失っていました。当時は戦後の混乱で警察の募集がなかったため、手柄を立てれば採用してもらえると思ったのです。

 

事件発生直後、警察は誤った人物を逮捕した一件で世間からの批判に晒されていました。ちょうどそんな時、偶然彼らに近づいてしまったのが那須隆だったのです。事件のあった夜に間違ったアリバイ証言をしたのは自分が疑われたことに動転して違う日の行動を言ってしまったからでした。さらに科学的に立証されたと思われた証拠にも多くの疑問点が存在していました。靴についていた血痕ですが、不可解なことに血痕が付着していたことを示す鑑定書は裁判に提出されませんでした。さらに被害者の血がついていたというシャツですが、那須隆が逮捕されたのは事件から16日後です。もし彼が犯人であるなら血のついたシャツを一度も洗うことなく自宅に置いておくことなどありえるのでしょうか?実はシャツを鑑定した医師の中にはシャツのシミを血痕と判定できず「判別不可能」という結果を出した者も複数いました。しかし、当時の警察や検察は納得のいかない鑑定結果が出ると別の医師を雇い被害者の血痕反応アリという結果が出るまで再鑑定を繰り返していたのです。そもそも当時は科学捜査が始まったばかりで、鑑定技術も確立されていたわけではありません。しかし、裁判所は提出された鑑定結果を最新の技術に裏づけられたものと位置づけ那須隆の供述よりも重要な証拠として採用しました。そして控訴・上告するも事件から4年後、懲役15年の有罪判決が確定したのです。それでも家族は彼の無実を信じていました。ところが事件から12年後、18歳だった弟が亡くなりました。罪を認め反省の意を示せば、仮出所までの期間が短縮されます。これ以上家族に迷惑をかけたくないという思いから那須隆は罪を認めたのです。そして自ら罪を認めたことで刑期が1年短縮され1963年に出所しました。

 

安田正は半年前、宮城刑務所に収監されていました。友人をかばって刑務所に入っていた変わり者でした。この頃、塀の外では三島由紀夫が陸上自衛隊の総監室に立てこもり「自衛隊を否定する憲法の改正に決起せよ」と自衛隊員たちに訴えました。しかし結局、三島由紀夫は目的を果たせず割腹自殺。この行為には多くの批判もありましたが、安田の入っていた刑務所の中に罪の意識に苛まれていた男がいました。命をはって自らの正義を貫いた三島由紀夫に比べ、欲望に負け身勝手な犯罪を犯し自らをごまかし続ける自分。その男とは弘前大学教授夫人殺害事件の真犯人である須藤勲(仮名)でした。

 

事件が起こった当時、須藤勲は父親が営むミシン工場の修理工として働いていました。得意先に地元の名士・高島家があり殺された三浦教授一家はその離れを間借りしていました。須藤勲はいつしか高島家の娘に惹かれるように。そして事件当日、思いをおさえきれなくなった須藤勲は彼女の邸に忍び込みました。ところが暗闇のため彼女の部屋がどこか分かりませんでした。仕方なく帰ろうとした時、偶然目に入ったのが離れで寝ていた三浦教授の妻あき子でした。この時、あき子は母親と子供の3人で川の字に寝ていましたが、須藤勲の位置からはあき子一人しか見えませんでした。少し触るだけという軽い気持ちでしたが、あき子が気配を感じて目を覚ましてしまったのです。須藤勲は持っていた護身用のナイフであき子を殺害。そして後日、須藤勲は知人に頼み込み事件当日のアリバイを証言してもらい早々に警察の容疑者リストから外れることに成功したのです。しかし、自ら狂わせた人生の歯車は元には戻らず、その後も犯罪を繰り返し結局人生の大半を刑務所で過ごすような日々を送っていました。

 

刑務所で須藤勲から話を聞いた安田正は無実の罪で苦しむ那須隆のためにも協力することに。安田と那須は知人の弁護士に須藤勲を紹介し、再審請求の準備に取り掛かりました。さらに再審請求実現のためには世論の後押しが必要と判断し、安田は井上記者を訪ねたのです。事件から22年後、その事実は井上記者によって独占スクープとして発表され世間を騒然とさせました。そして6年後の1977年2月16日、言われのない罪で捕らえられ14年間の服役生活を送った那須隆に再審無罪の判決が下りました。

 

無罪判決からしばらくして那須隆は検察官を相手に国家賠償を求める裁判を起こしました。国から多少の補償金は支払われたものの、国の責任を問う裁判では全面敗訴。裁判では警察が故意に彼を有罪にしようとした証拠はないとの判断が下されました。また時効が成立していたため須藤勲が罪に問われる事はありませんでした。そして2008年1月24日に那須隆は家族に看取られながら亡くなりました。